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苦くて甘かったアケビの若葉・新芽【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第382回2026年3月26日

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 私の子どものころ(もう90年、1世紀近くも前の話(古い話で申し訳ない)になるが)、私の生家から東に200メートルくらいのところに山形県立農事試験場(注)があった。敷地は4ヘクタールくらいあったのではなかろうか、その敷地の西北には木造の事務棟、研究棟があり、中央部に畑、南側には水田、東側にはサクランボなどの果樹の試験圃場があった。
 一般の住宅は試験場の西と北にあるだけ、南には一般農家の水田が、東には普通畑や桑畑が広がり、そのまた東には奥羽山脈の切り立った山々がそびえていた。また試験場の敷地の東南に当時としては近代的な市営の火葬場があった。このことからもわかるように、試験場は旧山形市(昭和の大合併=1954年以前)の市街地の東南の外れに設置されていた
 この試験場の敷地はその南側以外カラタチの垣根で囲まれていた。それはそれは見事だった。ところが、果樹試験地の東側だけアケビの木の垣根だった。なぜアケビにしたのかはわからない。
 このアケビの垣根に沿った細い道路のわきに、生家の畑があった。10アールくらいではなかったろうか。その畑を私たちは「火葬場のところの畑」と呼んでいた。畑は生家からは小学校、試験場の敷地を挟んで約300メートルくらいの距離にあり、麦や菜種、ジャガイモなどを植えていたのを記憶している。

 4月の半ば過ぎころではなかったろうか、父母が火葬場のところの畑に働きに行くとなると、祖母から小さな竹籠を渡され、いっしょに行ってそれに「木の芽」を採って来いと命じられる。「木の芽」とは「アケビの芽」のことである。喜んで出かける準備だ。幼い弟妹たちがいっしょに行く時もある。父母がいるから安心である。
 鍬やはけご(稲わらで編んだ容れ物)をかついだ父母の後について歩いて行く。当時のことだから車など通るわけはないし、人もあまり通らないので、走ったり歩いたり、しゃべったり、後になったり先になったりしながらついて行く。
 いよいよ到着、父母たちは畑で仕事にとりかかる。
 私たちは道端のアケビの生垣の前に立つ。アケビの緑の葉はまだ小さく、試験場の圃場が、サクランボの木が生垣からすけて見える。アケビの蔓のところどころに淡い紫色の小さな花が房状に咲いている。この色がきれいなのだが、形もいい。他の花に見られないめずらしい形をしており、雌花の柱頭(先端部)にネバネバした液体が付いているのもおもしろい。
 さて、いよいよ木の芽=アケビの芽摘みだ。5枚(だったと思う)の小さな葉を手の指のように(モミジの葉のように)つけた葉が花といっしょにアケビの蔓から何センチか間隔をおいて出ている。その小さな新芽を一つ一つ指で摘み、それを小ざるに入れる。トゲなどないから安心だし、柔らかいから摘みやすいのだが、葉っぱがちぎれて落ちてしまったりしないように気をつけながら摘んでいく。
 背中にぽかぽか当たる春の陽の温かさを感じながら、紫の花の美しさを楽しみながら、雌花の柱頭のネバネバをいたずらしたりしながら、小さい緑の新芽を摘む。ああ本当に春が来た、雪と寒さから解放されたのだとうれしく感じたものだった。
 また、自分も仕事をしている、大人が喜んで食べるものを採って役に立つことをやっている、これがまたうれしい。
 少しずつざるにたまってくる。しかし、時間がたつと芽がしおれ、量が減ってしまい、なかなかいっぱいにならない。背丈のせいで上の芽がとれないのも口惜しい。
 そのうちあきてくる。すると、ざるをおいて遊びだ。親は何も言わない。もう終わっているころなのだがツクシが残っていないか探してみたり、まだちょっと早いノビル(注ヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属の多年草。日当たりのよい土手や道端に生える野草で、全体の姿や臭いは小ネギやニラに似ている。花にムカゴをつけて繁殖し、葉と地下の球根は食用になり、古代から食べられていたとのことである)を道端の草むらの中からさがそうとしたり、隣の桑畑の中で走り回ったり、遊ぶことはいくらでもある。
 思い出してまた木の芽採りをはじめる。
 そのうち喉がかわいてくる。すると火葬場の事務所まで走って行って水道の水を飲ませてもらう。
 こんなことをやっているうちもうお昼、ざるにいっぱいになった木の芽をもって父母といっしょに家に帰り、祖母に渡す。
 夕方、祖母は木の芽をゆで、お浸しにしてあるいはゴマ和えにして夕食のおかずに出す。でも子どもは食べない。すさまじく苦いからだ。でも、大人はうまいうまいと言いながら食べる。自分は食べなくともそれがうれしい、誇らしい。
 これが春の恒例の行事だった。

 ところで、このアケビ、秋になったら実が生るはずである。でも採ったことがない。採りに行ったこともない。なぜなのか、今になって疑問になった。アケビが生らなかったからなのか、町場から大人が来て採ってしまうからなのか、わからない。考えてみたら、その春の時季以外ここのアケビのことなどすっかり忘れて思い出すこともなかった。

 1960年代に入ったころだったと思う、父が生家の塀のところにアケビを1本植えた。1~2年でどんどん大きくなって生垣のようになった。それで五月の連休に帰ると、その芽を摘んで食べるようになった。といってもそれはさきほど言った葉芽ではない。蔓の新芽である。柔らかく伸びた蔓、その途中のところどころに小さな葉がいくつかついているが、それを10~20センチのところで折る。これは葉芽の場合と違って摘みやすい。当然量もとれる。だからきわめて楽なのだが、さきほどの葉芽よりは苦い。それでも大人であれば十分に食べられる。葉芽の場合と同じように、ゆでてお浸しにして醤油と鰹節で食べる。少し紫がかった濃緑色がきれいであり、酒のつまみにもいい。胡麻和えにもするが、これは食べやすい。

 このように山形内陸ではアケビの芽を食べるのだが、それを「木の芽」と呼ぶくらいになじみの深いものである。他の地域でも食べるところがあるようだが、地域は山間部などに限られているようである。
 それにしても山形内陸人はアケビの実ばかりでなく、葉や蔓の新芽(さらにはアケビの実を包んでいる皮)まで食べてしまう不思議な(悪食?、いや貧しかったからだけなのかな?)人種である。

(注)1896(明29)年、山形県農事試験場として山形市漆山に設立、1908(明41)年、 山形市三日町(現・山形市鉄砲町)に移転したものである。1982(昭57)年にはさらにそこから山形市みのりが丘(現在地)に整備移転している。

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