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【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<中編>民衆目線で刷新運動に火 文芸アナリスト 大金義昭2021年3月10日

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 活動の舞台を島根から全国に移した千石興太郎は、平田東助が国家主義的な観点から普及した産業組合を「民衆の経済組織」に進化させようと、「産業組合主義」の烽火(ほうか)を上げた。大正デモクラシーの潮流がこれを後押しした。(写真は『千石興太郎』〈大貫将編・協同組合懇話会〉と『千石興太郎傳』〈石井滿著・産業組合新聞社〉から転載)

「君去つて痛惜に堪へ難し」

千石興太郎(1923年、数え50歳)千石興太郎(1923年、数え50歳)

人望を得て名を挙げていく島根で、千石興太郎は次男虎二に恵まれた。1914(大正3)年には島根県農会選出帝国農会議員に選ばれ、18(大正7)年には本籍を東京から松江市に移した。しかし翌年11月、千石は突如惜しげもなく島根の役職を辞し、海軍技官に転身。パラオ島の臨時南洋群島防備隊民政部の勧業係に単身赴任する。

なぜ唐突に、千石は南洋の離島に身を転じたのか。進退の理由は分からない。後年に「結局は一つの発作だよ」と本人がお茶を濁したままになったが、ここにひとつの証言から浮上する曲折がある。

18(大正7)年に島根県内務部長から海軍事務官長に転任し、防備隊民政部長に任命された手塚敏郎が千石の手腕を買い、自らのパラオ行に勧誘したのではないか。手塚は、千石の前任地であった宮崎県高鍋町の出身であり、7カ月年長の手塚と千石との間に何らかの内談があったと見てもおかしくはない。22(大正11)年には、手塚が南洋庁の初代長官に就任している。

驚いたのは、島根の人びとである。本籍まで松江市に移し、農会の発展や産業組合の育成に励んでいた千石である。その真意を掴(つか)みかねながら、島根の人びとは千石に深甚の謝意を示した。惜別の情を表した島根県農会の「感謝状」は、次のように結んでいる。

君去つて後何人か能く君の功業を繼承し、君の建設を大成すべきや、是れ實に本會の一大打撃たるのみならず本縣農界の一大不幸と謂ふべく、誠に痛惜に堪へ難きものあり、然れども君の洋々たる前途と燦然たる光明を想へば、偉材獨り本縣の私すべきものに非ざるを知る。是れ敢て君の留任を強ふる能はざる所以なり。
茲に金七百圓を贈呈して聊か感謝の意を表す。

信用組合連合会も臨時総会を開き、千石の理事辞任申し出を承認。満場一致で慰労金300円を500円に増額修正し、特別積立金の支出を決議している。

ところが、パラオ島に赴任した5カ月後の20(大正9)年春に、父が老衰で、妻ヨネ(米子)が心臓病で亡くなり、千石は急きょ帰朝。愛児を抱えた千石は、海軍技官を依願免職。誘われて同年秋に産業組合中央会(以下、中央会)の主事に迎えられる。産業組合法の公布(1900〈明治33〉年)から20年、法律の第二次改正で中央会が発足してから10年を経ていた。折しも普通選挙獲得運動が活発化し、この国で初のメーデーが開かれた年に当たっていた。

また第一次世界大戦を契機に国際的地位を向上させたこの国は、国際連盟の常任理事国に。千石の恩師でもある新渡戸稲造が連盟の事務局次長として活躍するようになったが、国内経済は大戦を契機にした過剰生産が原因でいわゆる「戦後恐慌」に陥った。農産物価格は米麦を中心に生糸も含めて軒並み急落し、爾来、農業・農村は慢性的な不況に襲われていく。

全国の檜舞台 産組中央会へ

愛児たちと(1918~19年頃、松江にて)愛児たちと(1918~19年頃、松江にて)

千石が身を転じた中央会は、東京の駿河台・小川町・三崎町を転々とした後、事務所を牛込・揚場町に構えていた。時の会頭は、初代の平田東助である。駿河台事務所は平田の門長屋、小川町事務所も平田の貸家であった。産業組合に寄せる平田の強い意志が窺われる。

米沢藩の藩医の家に生まれた平田は、貴族院を牙城に権勢をふるう山県有朋系の藩閥官僚政治家であった。彼は長州藩閥の知遇を得、山県の姉の娘達子を品川弥二郎の養女として娶(めと)り、山県・品川とは深い姻戚関係を結んでいた。人呼んで「山県系の参謀総長」と言われた男である。

平田は、政党を疎んじる山県の腹心として農商務・内務の牛耳を執る一方、法認された中央会の前身である大日本産業組合中央会を05(明治38)年に設立して会頭に就任。産業組合法案の帝国議会通過の際も、第二次山県内閣の法制局長官として尽力した経緯があった。

平田は、日露戦後に台頭した社会主義勢力に脅威を抱いた。小作争議も活発化し始めていた。彼は自ら哺育する産業組合に中小農民の保護・育成を期待。富国強兵と殖産興業の観点から地方行政制度を補完して国家の安寧を担う機能を託す。無論、地主・小作制度を温存したままの企図であった。

山県側近のナンバーワンである桂太郎の第二次内閣では内務大臣を務め、10(明治43)年に生起した大逆事件を機に、社会主義運動を弾圧するフレームアップ(政治的でっちあげ)を領導する地位にあって、幸徳秋水や管野スガ、森近運平ら12名を異例のスピードで極刑に追い込んでいる。森近には岡山県技手(技師)として産業組合の普及に貢献した実績があったが、後に社会主義運動に走って幸徳と親交があった廉(かど)で処刑された。

平田が22(大正11)年に天皇を常侍補弼する内大臣に就任すると、副会頭の志村源太郎が中央会の第二代会頭になった。平田が会頭として君臨し、「戊辰詔書」などを奉戴して「国民忠良の精神」を説き、産業組合を普及した期間は干支一回りに及んだ。

平田に請われて中央会の経営陣に早くから参画していた志村は、農商務省工務局長や日本勧業銀行総裁などを歴任し、自ら「社会改良家」を任じて自由主義的な信念や見識を産業組合の育成に降り注ぐ。産業組合学校の創設時には、生徒のために私財を投じ、東京・千歳村(世田谷区)に寄宿舎を建設して寄進し、これを「立志舎」と命名している。また雑誌『家の光』創刊の際は、「経営上の間違いが生じるようなら私財を以って補償し、中央会には負担を課さない」と確言し、現場の熱意に応えた。

志村は「産業組合の精神」を涵養する教育を重視し、「自由・平等・博愛」と「共同の精神・共同の計算」を結びつけた「共存同栄」の道を拓(ひら)こうとした。千石は、そんな志村という人傑に接しながら、全国を舞台に本領を発揮する。23(大正12)年秋には、島根出身で23歳離れたヨキ(代喜子)を後妻に迎えた。数え50歳の年である。翌年には三男勇が生まれた。

大会の呼び物になった千石の情勢報告(1927年)

大会の呼び物になった千石の情勢報告(1927年)


「産業組合主義」で産組を刷新

父・徹(1916年、当時72歳)父・徹(1916年、当時72歳)

千石が中央会に入った20(大正9)年に、産業組合は全国で1万3442組合を数え、組合員は229万人余を擁した。しかし「戦後不況」に見舞われ、不慣れな事業・経営と相俟(あいま)って20年代前半の産業組合は、毎年のように550~700余りの組合が解散を余儀なくされていた。また設立に到ったものの、休眠状態の組合も少なくなかった。産業組合法の公布からこの時期までを、千石は後に「産業組合の数量的発達時代」と称している。

ここに「安固なる経済と快適なる生活」を求め、「民衆的經濟機関としての産業組合」を唱導する千石の出番が生まれた。実務の大半を千石に委ねる会頭志村を筆頭に、中央会の志村・千石ラインが一気呵成に始動する。大正デモクラシーが一世を風靡する只中のことであった。

手始めに、懸案の全国購買組合連合会(全購連)や産業組合中央金庫(産組中金)の設立に動き、関係者とこれを実現する。23(大正12)年の創設時には千石が全購連専務理事を、志村が産組中金監事を兼務した。この取り組みは、市町村単位の産業組合を組織する郡・府県の各種連合会を束ねた全国組織(全国連や特殊法人)を立ち上げることにより、系統三段階制を整備・構築して事業基盤を強化していく端緒(たんしょ)になった。

かくて大日本生糸販売組合連合会や全国米穀販売購買組合連合会(全販連)、全国産業組合製糸組合連合会、大日本柑橘販売組合連合会などが陸続と誕生。千石が唱える「孤立的活動より聯合的活動へ」の気運が盛り上がった。

一方、産業組合法発布25周年に当たる25(大正14)年には、産業組合振興刷新運動を提起。「資本の専制を排して各個人の人格を認め、営利を目的とせずして共存同栄の精神による」産業組合の「質的な充実」と運動の飛躍的発展を目ざした。このために千石は「事業経営の民衆化」を唱え、一部の地主など上層農の恣意的な運営を「超脱」して「組合事業の普遍的なる利用」を求め、組合員の拡大を訴えた。

全国産組大会の終了後に

全国産組大会の終了後に(1930年、前列左から2人目が志村、月田氏。
千石は後列左から2人目)。志村はこの約4カ月後に西那須の別荘で急逝

千石が、産業組合の営利化・剰余金第一主義・信用事業偏重主義などの排除を唱えて求めた「産業組合主義」あるいは「産業組合主義経済組織」とはどんなものか。28(昭和3)年12月に、彼は次のように論じている。

産業組合主義とは、資本に対する利潤の獲得を第一義とする所の経済制度が、生産及消費の両方面に於て大衆の福利を阻害し、其の生活を脅威することの甚大なるに鑑み、之に代ふるに相互協同の経済制度たる産業組合の組織を完成し、其の機能を拡充して、大衆の福利を増進し、其の生活を安定し、以て社会の偕和協調を実現せむことを主張するものであつて、即ち産業組合に依る経済生活の統制を実現することを期するのである。而して是が実現を促進するが為に行ふ諸般の活動を、産業組合運動と称するのである。

千石はこの「産業組合主義」に殉じ、平田が立ち上げた組織に「産業組合主義経済組織」の命を吹き込んでいく。「振興刷新運動」は、その烽火に他ならなかった。記念事業に据えられた雑誌『家の光』や産業組合学校は、烽火を種火に「燎原(りょうげん)の火」とするべき役割を付託された。



(文芸アナリスト・大金義昭)

【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<前編>


【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<中編>

【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<後編>

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