【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<後編> 理想求めて乱世に挑む 文芸アナリスト 大金義昭2021年3月22日
「産業組合の独裁王」と言われた千石興太郎は、鼻っ柱が強かったが人の話をよく聞く人情家でもあった。「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」とデカンショ節で蛮声を張り上げた彼も、「時代の子」の限界を超えることはできなかった。(写真は『千石興太郎』〈大貫将編・協同組合懇話会〉と『千石興太郎傳』〈石井滿著・産業組合新聞社〉から転載)
(1943年、数え70歳)
反「反産運動」の先頭に立つ
千石興太郎は後年、新聞記者にしばしばこう語ったと伝えられる。「日本の産業組合運動の始まりは、明治33年の産組法の制定からだというが、それはウソだ。大正末期からだよ」と。この言葉は、「種を播(ま)いたのは平田に違いないが、種を育てたのはオレたちだ」と聞こえる。平田を「父」と見做(みな)し、千石を「産業組合の母」と称する人びともいる。千石が「産業組合運動」と言っているところにも妙味がある。
「機を見るに敏」であったという千石の言い分は、彼の見識を示している。藩閥官僚政治家として功成り名を遂げた平田は産業組合という「器」を作ったが、「器」に産業組合の根本精神を叩き込んだのは野人の千石であった。勿論、千石ひとりの功績ではない。
千石の周囲には、大正末期から昭和戦前期の農業界を牽引(けんいん)し、先の敗戦後の食糧難時代を担っていく官民の双方に、名うての人物が綺羅星の如く輝いていた。そんな山並みに聳(そび)える秀峰が千石であった。
千石は産業組合の「振興刷新運動」を契機に、次の段階を「産業組合の理想実現時代」と称した。「恐らくは将来十年位はかかりませう。うまく行かなければ十五年も二十年もかかるかも知れない」と唱えたが、間もなく昭和農村恐慌が突発。農業・農村は折からの冷害と相俟(あいま)って、地方によっては人身売買が行われるほどの疲弊を極めた。ちなみに、1920(大正9)年から36(昭和11)年の17年間に全国で発生した小作争議は、延べ5万1183件に上り、その数は年平均3000件余に達している。
恐慌やその後に続く不況に伴い、商人系(中小商業者)による「反産運動」も熾烈になった。31(昭和6)年には満州事変が勃発し、戦争の影が社会を覆い始める。
こうした怒涛の時代に、産業組合は「産組拡充5ヶ年計画」を、農林省は経済更生部を新設して「農山漁村経済更生計画」を樹立し、両者は連係して33(昭和8)年からの運動に臨んだ。同年には産業組合が反「反産運動」の先鋒を担う産業組合青年聯盟(産青聯)全国聯合を結成、さらに全国農村産業組合協会を設立して千石が委員長と理事長を兼任し、反「反産運動」の先頭に立った。
38(昭和13)年からは「第二次産組拡充3ヶ年計画」に挑むが、同年には政府にすべての統制立法権を白紙委任する国家総動員法が公布される。かくてこの国は無謀な戦争を拡大し、やがて主要都市が焦土と化す敗戦を蒙ることになる。広島・長崎は被爆し、国内で唯一地上戦が展開された沖縄は、地獄の惨状を呈した。
乱世を力にして突っ走る
この間の千石の足どりを辿ると、彼は中央会の首席主事・常務理事・副会頭を歴任し、志村源太郎・岡田良平・志立鉄次郎・有馬頼寧・月田藤三郎と5代の会頭を支えた。39(昭和14)年1月には、月田の死に伴って第7代会頭に急きょ就任。同年に農林大臣を辞任した有馬が第8代会頭に返り咲き、有馬がさらに大政翼賛会中央本部長に転身すると、千石が41(昭和16)年4月に再び会頭の第9代を襲った。太平洋戦争が勃発したのは、そのおよそ7カ月後のことである。
一方、千石はこの間さらに、金融機関の産組中金を除く各種全国連の会長に軒並み選任され、「産業組合の独裁王」と言われるまでになった。しかし風雲急を告げ、43(昭和18)年3月に戦時統制を強化する農業団体法が公布されると、産業組合や農会などは統合して国策遂行機関の農業会になり、中央に中央農業会と全国農業経済会が設置され、千石は両者の常任顧問に。さらに敗戦目前の45(昭和20)年7月にはこの両者が合体して戦時農業団が編成され、彼はその総裁に就任する。また敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦内閣の農商(農林)大臣になるが、在任期間は公職追放により僅か2カ月足らずに終わった。
千石ほどの男であるから、様々な毀誉褒貶(きよほうへん)がついて回った。しかし彼は微塵も右顧左眄(うこさべん)せず、骨太で剛毅な激情家の一本道を走った。洒落男であったが、生き方は飾らなかった。38(昭和13)年には肺炎で重篤に陥り、晩年の大臣在任中には喀血を隠しながら、乱世を力にして生きた。
その千石並びに彼が率いる産業組合運動がなぜ、なし崩し的に全体主義的な戦時体制に組み込まれていったのか。
要約すれば、(1)藩閥官僚政治家が上から組織した天皇中心の国家主義的な体質を超克できなかったこと(2)農業・農村の内部矛盾を規定する地主・小作制度を与件とした「共存同栄」「偕和協調」路線の限界を乗り越えられなかったこと(3)「都市対農村」という対抗軸を据え、中小商業者と抗争して前期的な搾取に対抗した「産業組合主義経済組織」が、官民一体の「拡充計画」で四種(信用・販売・購買・利用)兼営の組合を全国に普及し、保護と支援を受けた国家独占資本の経済統制機関に転化していったこと(4)「八紘一宇」や「尽忠報国」などを唱える侵略戦争に呼応し、後に進んで「農村決戦態勢の確立」に加担していったことなどが挙げられる。
産組中央会会頭の事務引き継ぎ(1939年、千石会頭(右)より有馬頼寧会頭へ)
自分に溺れず人に優しく
千石は、43(昭和18)年6月に開催された最後の「全国産業組合代表者会」のあいさつで次のように檄を飛ばした。
今や四十四年の歴史を有する我が産業組合は、一万三千有余の農村産業組合と八百余万人の組合員、四十七の道府県産業組合聯合会よりなる一大勢力を挙げ、(中略)系統農会や、畜産、養蚕等のこれまた農民の集結である有力な組織と相合して新たに農業会を形成することは、まことに皇国農業の発達、皇国農村の興隆のために慶祝すべきことであります。聖戦目的達成のために、是が非でも成し遂げざるべからざる皇国農民の責務は、新農業団体の活動によりて、全ふし得ることが出来るものと確信致します。
人は誰しも、「時代の子」としての制約を受けて生きる。しかし、その時代を創(つく)るのも人である。一介の技師から「産業組合の独裁王」に上り詰めた稀代の風雲児、千石もまたその例外ではない。千石は、戦後農協の母胎となる産業組合の「民衆化」に半生を捧げ、軍国主義の怒涛(どとう)に呑み込まれた。
侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を好み、人情家として人びとの琴線に触れた千石の逸話は多い。本紙『農業協同組合新聞』の編集主幹であった田中豊稔にまつわる話もある。田中は東大新人会に名を連ねる学生活動家であったが、大学を卒業すると、32(昭和7)年7月に本紙の前身である『経済更生新聞』を創刊。タブロイド判4ページの〈豆新聞〉は、鋭い論陣を張った。
小さいながらも「紙の弾丸」と評された新聞は、時に千石をも槍玉にあげた。その千石に、田中は助けられる。戦時中の新聞統制で廃刊を余儀なくされ、補償金が僅かで従業員の退職金の手当てなどに困った田中は、やむなく千石に泣きついた。千石は産組中金から500円と全購連から500円の計1000円を用立てた。また敗戦後に職を求めて上京し、戦前の縁故を頼って万策尽きた田中の証言がある。
大抵の人が口だけは親切だが、一介のルンペンを世話してやろうという奇特の士はなく、思いあまつて千石さんのお宅を訪ねたところ、氏は微熱で病臥(びょうが)中であつたが、床から起き上つて巻紙に筆をとり「お互いに古い同志だから何とかしてくれ」という紹介状を二通書いて呉れた。病気のお見舞どころか、逆に大いに鼓舞されて、これで東京に踏止まつて仂き抜こうという決心がついたわけであるが、それは氏が亡くなられる半年ほど前のことであつた。
千石は家庭的に必ずしも恵まれなかった。4人の弟妹を早くに亡くし、先妻ヨネ(米子)を49歳で、長男龍一を27歳で、三男勇を21歳で失っている。廃嫡した気立ての優しい龍一は共産主義に走り、28(昭和3)年の3・15事件で検挙され、大阪・堺市で亡くなっている。龍一が家を飛び出した時に千石は「自分がそう信じてやる運動なら遠慮することはない、行く先を知らしておけば行李(衣類のはいつた)位届けてやるのにと言つていたが、眼には光るものがあつた」と次男虎二は書き残している。「青は藍より出でて藍より青し」ということか。
悲しみを伏せ、激動の時代を駆け抜けた千石は、50(昭和25)年8月22日午後3時に東京・雑司ヶ谷の質素な自宅二階八畳間で静かな眠りに就いた。この年の夏は、例年にない暑さに見舞われる。乾ききった庭に影を落とすキュウリやトマトの葉が、風一つない昼下がりに打ち萎れていた。享年77。
(注)主な参考文献は冒頭の2書以外に、『人物農業団体史』(栗原百壽・新評論社)、『君臣 平田東助論』(佐賀郁朗・日本経済評論社)、『農の源流を拓く』(中村信夫・家の光協会)、『戦前期ペザンティズムの系譜』(野本京子・日本経済評論社)ほか多数。
(文芸アナリスト・大金義昭)
夢を託した千石の枯淡の書
【千石興太郎の「人と思想」】産組運動に命を吹き込んだ男<前編>
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