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月刊誌『家の光』創刊100周年 一世紀に見る「大衆」の夢 文芸アナリスト・大金義昭氏(1)2025年5月30日

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「共同心の泉」を謳(うた)う家庭雑誌として誕生した月刊誌『家の光』が今年の5月号で創刊100周年を迎えた。農業や地域と一体で歴史を重ねている。家の光協会の編集局長も経験した文芸アナリストの大金義昭氏に「『家の光』の一世紀に見る協同の歩み」と題して寄稿してもらった。

「一家一冊万能」貫き 「協同の心」育んで

創刊100周年を迎える『家の光』5月号(左)と創刊号の1925(大正14)年5月号創刊100周年を迎える『家の光』5月号(左)と創刊号の1925(大正14)年5月号

長寿雑誌の持続可能性

月刊誌『家の光』が1925年5月に創刊され、2025年5月号で100周年を迎えた。産業組合(産組)の「通俗家庭雑誌」として誕生した『家の光』は書店をにぎわす市販雑誌(いわゆる「ナショナルブランド」)と異なり、目にする機会は一般に少ない。しかし、1944年1月号の発行部数は153万部に達し、戦前のピークを極めた。

定価20銭という、他誌に比べて廉価な誌代が創刊号から20年余据え置かれた。農村の読者にはそれでも安くはなかった。裏表紙に今も残る購読者の氏名記入欄は、持ち寄り読書会での活用や誌代が払えない未購読者への回覧などに配慮していたから、読者の実数は発行部数を遥かに上回っている。

戦後も、高度経済成長期の1961年1月号に180万部の最高部数を記録する。世にいう「隠れたベストセラー」として、『家の光』はこの国の出版界に特異の地歩を占めたが、活字・ラジオ・TV・SNSなどメディアの多元・多様化や氾濫、さらには農業・農村・農協に強いられてきた困難な環境・条件に晒(さら)されて苦戦し、それでも稀に見る長寿を重ねてきた。

「ナショナルブランド」の対語に「プライベートブランド」がある。この商品分類に従えば戦前の『家の光』は産組の、戦後は農協の教育文化資材(「プライベートブランド」)と見なされ、今日に至っている。協同組合に寄与するコンセプト・マガジン、あるいはコミュニケーション・ツールとして独自の普及・推進ネットワークにより、組合員の年間予約購読が勧められてきた。

小論は、雑誌を細分化するクラス・マガジンが百花繚乱(りょうらん)の時代にあってなお「一家一冊万能」の姿勢を守り、戦前・戦後の協同組合と二人三脚で歩んできた『家の光』の波乱に満ちた軌跡をフォーカスし、その持続可能性に言及する。『家の光』は、この国の家族農業や農協の持続可能性にも表裏一体で重なっている。

「大衆」争奪戦に参入

社史の多くは濫觴(らんしょう)期がおもしろい。『家の光』の創刊には、時代的に三つの主な要因があった。一つは近代的な「大衆」の出現、次いでマス・メディアの登場、さらに大正デモクラシー(リベラリズム)の思潮があげられる。いずれもこの国に独占資本が形成され、大量生産・消費が可能になった時代に顕在化した。

第一次世界大戦に伴うバブル景気。バブルが弾けて発生した戦後恐慌などを契機に多発する小作・労働争議の担い手がいわゆる「無産階級」として頭角を現し、経済・社会の階層分解を反映した近代的な「大衆」が出現した。

印刷・製本の技術革新を遂げたマス・メディアが、こうした「大衆」の希望や欲望にこたえていくのもこの時期だ。誰が「大衆」の心をつかむか。「大衆」争奪戦に社運を賭けて挑んだ大日本雄弁会講談社が1925年1月に『キング』を発刊した。

『キング』創刊号は74万部を売り上げ、『主婦之友』『婦女界』『婦人世界』『講談倶楽部』など、いずれも当時20万~15万台の発行部数を誇った花形雑誌をゴボウ抜きにした。その内容は、「大衆」好みの小説・説話・講談・笑い話・実用知識など娯楽性に富む大衆雑誌の原型になった。

1920年代前半は、24年に100万部を突破した『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』系列の週刊誌『サンデー毎日』『週刊朝日』が22年に刊行され、菊池寛が発刊した『文藝春秋』が23年に登場。東京放送局によるラジオ放送が25年に始まった。26年には「円本」がブームになって3、4年続く。

藩閥政治の巨魁・山県有朋と姻戚関係を結ぶ官僚政治家・平田東助に代わって、日本勧業銀行総裁などを歴任した志村源太郎が1922年に産組中央会の第二代会頭に就任すると、志村は初代会頭・平田の国家主義的な路線の改良に着手。「社会改良家」を自任した志村は自由主義を信条に産組の育成に力を注いだ。産組法発布25周年に当たる25年には、産組振興刷新運動を提起。産組学校を開校し、『家の光』を発刊する。志村は、産組の「質的な充実」と運動の飛躍的発展を志した。後年に第7・9代会頭を務めて「産組の独裁王」と評された千石興太郎が、志村の意を汲んで実務を指揮している。

その千石が後に語った言葉がある。「日本の産組運動の始まりは、1900年の産組法の制定からだというが、それはウソだ。大正末期からだよ」と。「仏つくって魂入れず」「種を播(ま)いたのは品川弥二郎や平田に違いないが、種を育てたのはオレたちだ」という本音が聞こえる。

「資本の専制を排して各個人の人格を認め、営利を目的とせずして共存同栄の精神」を普及する『家の光』が、かくて社会主義思潮に対抗する産組主義や農本主義を掲げて「偕和協調」を唱え、「大衆」争奪戦に参入した。背景には、普選法案が衆議院で修正可決されるなど、大正デモクラシーの機運が高まっていた。銘記すべきは、同時に治安維持法も成立している。

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