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再建整備と農林官僚の進軍ラッパ2013年10月29日

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【太田原高昭 / 北海道大学名誉教授】

・発足間もなくの経営破綻
・再建整備法制定とその代償
・連合会の整備促進と共済連の発足
・再建整備、整備促進がもたらしたもの

 戦後に新しく生まれた農協は、まもなく「ドッジライン」といわれた超デフレ政策による不況で、経営破綻に陥った。
 ここから脱出するには、政府からの補助金に頼るしかなかった。その結果もたらされたものは、官僚による農協支配であり、農協の「第二役場化」だった。そして、戦後の新役員や新幹部は経営破綻の責任を問われて退陣し、彼らに代わって旧リーダーが復活した。
 こうしたなかで、明るい話題もあった。それは、産組いらいの念願だった共済連の発足である。これが、やがて農協の大きな力になっていく。

◆発足間もなくの経営破綻

 新しい理念の下に、全農民を組織し、整然とした3段階組織を整えてスタートした新生農協は、しかし間もなく全般的な経営破綻の様相を呈するに至る。1950年には全国の総合農協の43%が赤字組合となっており、255の農協が貯払いを停止し、払い戻しを制限した農協は799を数えた。
 これは、戦後の猛インフレを収束すべく来日したアメリカのドッジ公使の名をとって「ドッジライン」と呼ばれた超デフレ政策がもたらした不況によるものであったが、その影響がとくに農協にきびしく現れたのは、当時の農協に内在した次のような弱点による。
 [1]組合が乱立し小規模農協が多かったこと、[2]組合がインフレさなかに集中して設立されたため出資金がすぐに過少となったこと、[3]農業会から引き継いだ資産に多くの不良資産や膨大な売掛金が含まれていたこと、[4]公職追放などでリーダーの交代があり、新しく選ばれた役員の多くは実務経験に乏しかったこと(農林省『農業協同組合制度史』)。
 何れも農業会からあわただしく「看板塗り替え」した事情にからんでおり、組合員である農民の責任だけが問われるものではない。また不振組合の赤字解消と不良資産の処理は農協の自力ではとうてい解決できるものではなかった。農協中央は自主再建をあきらめ、国に対する支援要請の運動を開始した。

◆再建整備法制定とその代償

 この要請を受けた農林省の出方はどうであったか。農協は自主的民主的な組織だから行政は口を出すなと言うのがGHQの方針だったが、この問題をきっかけとして「とうとう進軍ラッパを吹いたわけです」と当時の農政局長東畑四郎は前にも出た『昭和農政談』で回想している。しばらくそれを聞いてみよう。
 「占領下において農協には一切行政はタッチするなということであったために、いいたいこともいわずに皆さんおられた。ところが経営困難になってついに政府に補助金をくれということになった。そのための再建整備法もできた。そうなった以上なんの遠慮もいらないのだから堂々と検査をすべきものと考える。…農政局長としてそういう方針に切り替えたのに対し、農協からは何の反撃もないぐらい、当時の農協は弱っていたのです。」
 再建整備法が制定されたのは1951年4月で、農協だけでなく漁協や森林組合も同じ状況であったために名称は農林漁業組合再建整備法という。その中味は簡単にいうと組合は財務処理基準令に適合するよう増資し、その実績によって国庫から奨励金を交付するというものである。法の適用を受けた農協は2480、連合会が142であった。
 1951年というとちょうどサンフランシスコ条約で日本が独立を回復し、占領政策の重しがとれた年である。農林官僚の「進軍ラッパ」は検査にとどまるものではなかった。農政の農村現場への浸透のパイプとして農業団体を利用することは、日本の農政当局の明治以来の 伝統的手法であり、再建整備は新生農協に対する官僚支配の契機となった。

◆連合会の整備促進と共済連の発足

 単位農協の再建整備は、集落組織を動員しての出資金増強によってかなりの成果を挙げた。5カ年計画の最終年には欠損金総額123億円に対して174億円の増資を達成している。これに対して国の奨励金の総額は30億円であったから、増資の83%は組合員農民の負担によるものであった。
 一方、連合会の再建は遅々として進まなかった。連合会の出資者は単協であるが、単協には増資の余裕はなかったから、農林中金と信連が連合会(主として販連と購連)に資金援助して政府が利子補給するという農林漁業組合連合会整備促進法が1953年に成立し、全国連のすべてと県連のほとんどがその対象となった。
 整備促進の過程で連合会の徹底した合理化が進み、販連と購連は合併して経済連となり、県内で地域ごとに分立していた連合会も一本化された(山形県の庄内経済連が唯一の例外)。連合会組織のスリム化であり、職員数もおよそ2割カットされた。
 この時期における前向きの話題は共済連の発足である。組合による保険事業は産組いらいの悲願であったが、戦前は保険業界の強い抵抗で実現せず、戦後の農協法によって組合の共済事業への道が開かれたのである。1948年に開拓時代以来の助け合いの歴史をもつ北海道にまず共済連が生まれ、1950年には全国連がスタートした。そして1957年までに全都道府県に共済連が組織され、やがて系統農協の大きな力となっていく。

◆再建整備、整備促進がもたらしたもの

 再建整備と整備促進の時期は戦後農協史の「暗い部分」であり、当時の理事者の責任問題もあって正面から語られることが少なく、各地の農協史などでも避けて通るような傾向がある。しかし、この時期は戦後の農協の骨格と体質が形成されたきわめて重要な時期であり、ここを避けてはその後の農協の歩みを語ることができない。簡単にまとめてみよう。
 第一に農協に対する官僚支配の復活である。これについてはすでに述べた。農協が「農政補完組織」「第二役場」などといわれる関係が、濃淡はあれ今日まで続いている。
 第二に農協組織内部の問題として連合会と単協の関係に重大な問題が生じた。連合会の再建は単協からの増資は求めなかったものの、ふたたび連合会に赤字を出さないために単協に対して「系統全利用」が義務づけられた。しかも販売については無条件委託、購買については現物引き換え決済という普通の商取引ではあり得ない一方的なものであった。
 これによって事業連の経営は大きく改善されたが、代金回収などのしわよせはもっぱら単協がかぶることになり、単協を踏み台にした連合会再建と批判された。これは単協の再建が先行したこの時期の時限的な措置であったはずが、その後も連合会優位の取引関係が「整促7原則」などのかたちで長く残され、系統内部の不協和音の発生源となり続ける。
 第三に役員構成における旧人の復活である。農協や連合会の経営不振の要因の一つにリーダーの交代があったことはすでに触れたが、再建整備、整備促進の過程で当然経営責任の追及があり、戦後新しく選ばれた役員や幹部職員が身を引くことになった。
 それに替わって公職追放が解けるなどで、産組や農業会時代に実績のある旧リーダーが復活するというケースがあちこちで見られた。「もはや戦後ではない」ということばがあてはまる。
 当時の東京大学近藤康男教授は、こうした一連の動きを「再建整備とはふるい秩序の再建である」と喝破したが、この発言をふくむ農協理論の動向については次回で見よう。

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