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JAの活動:インタビューで綴る全農50年

【インタビューで綴る全農50年】第4回 原田康 元JA全農常務理事 農家回りが財産に2021年11月2日

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全販連出身の原田康さん(84)は、畜産物から青果物など、ほとんどの産品の販売に関わり、今日のJA全農の販売事業の基礎を築いた。全購連と全販連の合併時には、労働組合の役員として職員の労働条件の改善に努めた。聞き手は全農OB・農協協会理事の坂田正通氏。

原田康 元JA全農常務理事原田康
元JA全農常務理事

――就職先に全販連を選んだのはなぜですか。

愛知県の知多半島の農家の4男に生まれ、家が貧しかったので大学は家からの仕送りがなくても行ける東京教育大学農学部に入りました。当時は60年安保闘争のもっとも激しかったころ。樺美智子さんが国会内でデモ隊と機動隊との衝突で死亡したときデモ隊のなかにいたのですが、「女子学生が死んだ」という情報が伝わると機動隊が興奮して異様な雰囲気になり、身の危険を感じたことを思い出します。
家庭教師のアルバイトをしながら大学を卒業して昭和36年(1961年)全販連に入りました。農家が丹精して育てた農畜産物の販売に苦労しているのを体験していたので、少しでも農家のためになる仕事をしたいとの思いがありました。
全販連では農産部に配属されました。農家が副業でつくったむしろやかます、縄などの販売担当です。また農産部には輸出課があり、香港へ鶏卵、カナダへ温州ミカンなどを輸出していました。カナダではクリスマス・オレンジとしてとても人気がありました。

――畜産の仕事が長かったですね。

次に配属されたのは芝浦のと場、中央市場の施設内の販売事務所です。所属は経理部でしたが忙しいのでみんな現場に出ました。現場での牛の血を浴びながらの仕事は事務職場とは全く違う世界でした。当時、1960年代は肉食の普及で畜産が伸びていましたが、畜産物の販売はまだ馬喰(ばくろう=家畜の仲買人)と呼ばれた人や、卸売業者の力が強い時代でした。農協組織で畜産物の取り扱いを始めたので全販連が主要都市のと場に併設をした販売所をつくりました。この販売所に若い職員を集めました。芝浦の販売所はこれらの拠点でした。未経験の仕事でしたが、貴重な体験をすることができました。
芝浦から本所の鶏卵課に行き、2年後、大宮肉畜販売所に配属になりました。所長を含め、職員3人だけの職場です。牛や豚の生産から販売までのこれも未経験の仕事でしたが、当時は牛の枝肉を冷蔵庫で買い、指を握り合う相対販売の時代で肉屋のおやじさんとつき合い、馬喰さんとも知り合いになるなど、楽しく仕事をしました。
和牛の販売を例にとると生体では同じように見えても、枝肉にすると価格が大きく違うのに納得のいかない農家に現場で枝肉の商品としての特質を説明して、それでも納得のいかない農家のみなさんに販売先の料理屋に頼んでいろいろな肉を試食して納得してもらいました。いろいろな肉の部位を食べると違いがよく分かります。親牛の系統や飼育管理の仕方によって肉質に差が出るということで生産者に納得してもらいました。
また、牛は枝肉だけでなく、皮、内臓、骨、血液なども副産物としてお金になります。農協の販売では枝肉の他に副産物の販売の明細書を付け農家に清算をしました。このように正直な仕事をしたことで農協の信用が得られ、従来の業者中心の販売から農協へと流通の構造が大きく変わりました。

――全購連と全販連の合併のころは、労働組合の役員をされていました。全販連の労働組合は当初、合併に反対していたようですが、どのような状況だったのですか。

全販連と全購連の合併の2年前1970年に全販連の労働組合の委員長に推されました。当時、農協の全国組織の労働組合は全購労、全販労、全中労、全共労の四つがありました。この4連の労組が協議会・4連労協をつくり、ベースアップやボーナスなどを統一行動するようにしました。会側も全中がまとめ役で交渉しました。経営者側も労働組合もそれぞれが全国の4連で協議をする場があったわけです。
当時、全購連は飼料工場や明石のゴム工場などは別会社にしていました。全販連は所場(事業所)が販売事業の現場そのものなので本体の部門にしていました。合併後はこれらの所場を本体から切り離して会社方式にする計画が出されていました。全販連の労働組合はこの所場分離に反対して、合併反対を方針にしておりました。
合併は組織決定でありスケジュールも決まって、全販労が反対をしても合併は進むので、合併後に労働組合が一本化したとき、組合内でしこりを残してはいけないと考え全販労が組織討議して合併反対の方針を外しました。
合併をして販売、購買の各部門の仕事上の協議や人事の交流がありましたが、労働組合は4連労協で職場集会やストライキなどの活動を一緒にやっておりましたので職場の違いなども分かっており、合併後も以前の統一活動でお互いに気心が知れていましたので仕事の上でも役に立ちました。

――その後も、あちこち仕事が替わっていますね。

埼玉県の大宮に4年いて、東京支所の畜産部に行き、昭和43年(1968年)に新しく埼玉県の戸田市に設立した東京生鮮食品集配センターに第1期生として配属されました。そこには畜産部門もありましたが、所属は果実課で担当したのはリンゴの販売です。リンゴのことは何もわからないまま青森県の出荷会議に出席し、主産地の組合長や卸売市場の会社のベテランを相手にやり取りしていました。青森駅前の土産物屋に行っていろいろなリンゴを買ってホテルで、リンゴの品種名と味を覚えるなどの思い出がありますが、いま考えると冷や汗ものでしたね。
また、スーパーマーケットが躍進した時代で、センターの全員が未経験の分野に総力を挙げてスーパーマーケットへの販売のノウハウ、体制を作りました。
その後、常務になる3、4年前生活部長を務めました。これまでの売る立場から買う立場への転換でした。また、常務のとき自動車・燃料を担当しました。当時はガソリン等の輸入の自由化が焦点になる時代で石油の元売り業界の鼻息が荒かったことが印象に残っています。

――いま振り返って、全農の40年間で印象に残っていることはなんでしょうか。

現場で畜産や野菜、果実の農家回りをしたことですね。農家と販売の計画を立て品物を確認して、スーパーや生協のバイヤーにつなぐ。農家もスーパーを視察する、バイヤーも農家に行くなどをしてそのやりとりが楽しかったですね。農家組合員、農協、県連と一体となって仕事ができました。
販売の職員は、みんなそうやって育ってきたのです。それと畜産、園芸、生活など実に多くの分野で仕事してきました。やってないのは米だけです。全販連にいた職員としては珍しいと思います。

〈インタビューを終えて〉
60年安保闘争の時、原田さんは東京教育大の学生で国会周辺での安保反対デモに参加していた。女子学生がデモ隊の中で圧死したというニュースは、その場に広がると機動隊がいきり立ち、学生たちのデモ隊に襲い掛かってきた。あわてて逃げ友人たちとタクシーを拾い、そのまま家庭教師のアルバイトに出かけた。そんな学生時代。
実家は愛知県知多半島の農家、農産物の販売を助けたいとの思いで、全販連に就職した。配属先は農産部で、かます、むしろ、縄の販売など懐かしい名前が出てくる。カナダへミカンの輸出もしていた。その後は芝浦へ異動。豚・牛のと場現場だった。枝肉・皮・内臓・血液すべてが評価され値段がつく。リンゴなどの卸売市場にもかかわったという。
全販連は米の取り扱いの印象強いが、原田さんは米部門を担当したことがない。全農大阪支所次長から生活部長、そして常務理事へ。合併前の全販連労働組合委員長をはじめ、㈱燃料ターミナル社長と、どこでも誠実・真面目によく働かれた。ご夫人は全販連輸出課の内部結婚。原田青年23歳。当時としても結婚年齢は若かった。

(坂田)

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