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特集:第65回JA全国青年大会特集

2019.02.19 
【座談会】ポリシーブックを核に「農」の価値 広くアピール(1)一覧へ

【座談会出席者】
水野 喜徳・JA全青協会長/群馬県JAあがつま理事
村上 光雄・元JA全青協副委員長/前広島県JA三次組合長
大金 義昭・文芸アナリスト

 日本の農業の将来は、若い担い手であるJA青年部の盟友の手にかかっているといっても過言ではない。特に、現場で直面する課題を掲げたポリシーブック(政策提言集)は、JAや国の農政判断の指標になっている。現会長の水野喜徳氏と今日の青年部活動の道筋を付けた元JA全青協副委員長・前広島県JA三次組合長の村上光雄氏に、世代を超えて人生観、組織・運動論などを話し合ってもらった。(進行役は文芸アナリストの大金義昭氏)

【座談会】ポリシーブックを核に「農」の価値 広くアピール 水野 喜徳・JA全青協会長/群馬県JAあがつま理事  村上 光雄・元JA全青協副委員長/前広島県JA三次組合長  大金 義昭・文芸アナリスト

 大金 2010年代に入り、国際協同組合年や家族農業年、土壌年が続く一方、協同組合がユネスコの無形文化遺産に登録されました。国連の70周年ではSDGs(持続可能な開発目標)も採択され、今年からは「家族農業の10年」も始まるなど、世界的に家族農業や協同組合を大切にする気運が高まっています。その背景には、人類と地球環境の未来に対する深刻な危機感があるように思います。
 経済のグローバル化で、多国籍資本の利益独占が進み、世界の人たちが飢餓や「貧困と格差」の問題に直面しています。私はかねがね、JAは家族農業と地域社会を守る「守護神」であると唱え、その役割を期待してきました。そんなJAの次の時代を背負っていく青年部の水野さんから、まずは自己紹介をいただけますか。

 

◆青年部活動からJA運営へ

 水野 私は群馬県吾妻郡の出身で、実家は中山間地で数代前から農業を営み、夏は養蚕、冬は林業で生計を立てていました。祖父の代で自由化の波にもまれ、林業も養蚕も立ち行かなくなりました。そこでコンニャクの栽培を始めたのですが、祖父が地元農協の組合長、父も理事をやっていました。

 

 村上 それは生粋の農協人だ。
 水野 それが実は、きちんと農業を勉強していなくて。大学では経済学を学び、社会人になって自動車の営業販売をしていました。売る難しさ、リスクを背負うということが、いま役に立っています。それに仕事の優先順位、段取りの付け方も身につきました。

 

 大金 異業種で培ったビジネススタンスやスキルが、今に生きているということですか。

 

水野 喜徳・JA全青協会長/群馬県JAあがつま理事
 水野 そうですね、自分なりにアレンジして仕事に活かしています。その後、就農を決めたのは父が腰を痛めてコンニャク栽培の規模を縮小しようかと相談を受けた時です。吾妻がコンニャク産地になったのは祖父の功績があったからだと、いろんな人から聞いていたので、このまま営業マンでいていいのだろうか、ここでやらないといつやるのか、と思ったからです。
 当時は5haから始めましたが、今は10haほどになっています。自分の家の農業経営を引き継いでいかなければいけない、という思いで精一杯ですから、農協青年部で高い志を持って、というようなことはなかったですね。先輩たちが卒業して、徐々に今の立場になっていったというところです。

(写真)水野 喜徳・JA全青協会長/群馬県JAあがつま理事

 

 大金 青年部の大先輩である村上さんから、水野さんに参考にしていただけるようなお話をお聞かせいただけませんか。

 

「お金では買えない    人との出会いがある」 村上 父親が原爆で被爆して、体が弱かったのですが、農業やるなら大学へ行ってもいいと言われて岡山大学農学部に入り、卒業してすぐ農業に従事しました。1964年、東京オリンピックの年です。そのころは水稲と使役用の和牛を飼ってましたが、これからは繁殖和牛を増頭するしかないと考え、徐々に拡大していきました。
 高度経済成長期に入り、段々と肥育経営に移行し、1972年ごろには50~60頭くらいにはなっていたかな。ところが牛肉の輸入自由化で価格が大暴落し、大損してやめる人もかなりいました。しかしその時私は、逆に「価格が下落して安く素牛が手に入る」と考え、大型牛舎を新築して短期間のうちに100頭まで規模拡大しました。そして牛価も回復し、なんとか安定経営にたどりつきました。
 一方、26歳のころから地元の農協の監事や青少年クラブの活動から、青年部の世話をするようになり、その後、JA全青協の副委員長をやらせていただきました。そして青年部の広島県の委員長任期中の1981年に組合長に選任されました。それで親父と家内の協力のもと、肥育経営をしながら広島県信連、中央会の専務を経て、いろいろと課題を抱えている合併後の三次農協に帰ってきました。それから20余年のその間、県中会長、全中副会長を務め、3年前に地元JAも退任して、今では米づくりをしながら社会福祉法人の非常勤の理事長をしています。

 

 大金 時代や地域を超えてお二人に共通するのは、中山間地域で農畜産物自由化の嵐に見舞われてきたという点ですね。村上さんは、青年部時代の心意気を今に至るまで貫いておられ敬服しているんですが、組合長になられたのはおいくつの時でしたか。

 

 村上 39歳です。冨野井利明さんという青年部出身の36歳で組合長になった優秀な人がいて、その人に続いて、組合長は若い者にやらせた方がいいということで推薦されました。

 

 大金 水野さんにも、そんな先輩がいましたか。

 

 水野 農協や農政に対する考え方を教えてくださったのは群馬県青協3代前の委員長だった天笠淳家さんです。天笠先輩からすると、僕はまだまだ甘いと言われそうですが。

 

 大金 いやいや、素晴らしい先輩に恵まれましたね。ところで、若い盟友との間では組織運営上のジェネレーションギャップがありませんでしたか。

 

 水野 ありましたよ。例えばひとつになって頑張っていこう、と言ったとき、必ず異論を唱える人が出てくるということはあります。我々40代の世代と20代、30代ではなかなか意識を共通できないものです。全国の青年部の盟友6万人が、農業をしている誇り、地域で農業をすることの大切さ、農協があるから農業ができる、といったことを少し意識して欲しいと思っています。

 

 大金 「一人の百歩より百人の一歩」といった考え方が、水野さんにはあったんですか。

 

 水野 そうですね。JA改革の話が出たり、農協を変えたいといった話が出たりしたとき感じたのは「もっと意識を持って」だなと思ったのです。どうして我々がそういうことを言われなければいけないのか。組合員の一人ひとりの意識があれば、さらに外からあれこれ言われることはないのでは、と思います。

 

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