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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第76回 牛馬車による運搬の普及2019年11月14日

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酒井惇一・東北大学名誉教授

 耕起作業で使役するために明治以降農家に導入された牛馬は運搬用にも利用され、これも過重労働を大きく軽減させた。

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 前にも述べたように、遠方への運搬、たとえば田畑から家までの稲束の運搬は背中に背負うか、天秤棒で担ぐか(注1)、大八車の荷台につけて運搬するかしかなかった。
 大八車、昔のことを描いた映画などで見ておられると思う(注2)ので説明するまでもないと思うが、人力を動力として荷物を運ぶためにつくられた総木製の二輪車で、その荷台に荷物をつけ、その前方についている梶棒を持って人間が引っ張って歩き、運搬するというものである。
 当然のことながら大八車は人が背負ったり、担いだりするよりもたくさんの荷物を運ぶことができた。しかし、未舗装の凸凹道路を引いて歩くのだからかなり大変だった。ちょっとした小石や大きな砂利が車輪の下に挟まるとまっすぐに進めなくなる。上り坂ではなかなか動かせなくなり、下り坂になるとスピードが出て止まらなくなってしまう。そこで、梶棒のところに長くて太い紐縄をつけ、それを女子どもが引っ張って、あるいは後ろから押しながら(下りの場合には後ろに引っ張りながら)、つまり二人がかりで動かしたりもしていた。もちろん人が引くのだから、その速度は徒歩並み、いやそれ以下であり、運べる量にも限界があった。

 その人の代わりに牛もしくは馬が引くようにした大八車、これが牛馬車である。人間よりもはるかに力の強い牛馬が引くのだから大八車よりはるかに大きく、重い荷物を、遠くまで、長時間運ぶことができるようになった。
 私の生家のある山形内陸は牛耕地帯だったので、私たちが「べごぐるま」と呼んでいた牛車(ぎゆうしや)が普通だった。牛車は馬車とその構造は基本的には同じだが、若干背が低く、やや小ぶりだった。
 このように二種類あるのだが、牛車という言葉は一般には使われない。平安時代の言葉として「牛車(ぎつしや)」があり、また「牛車(うしぐるま)」としてきちんと載せている辞書もあるが、一般には牛車は荷馬車のなかに一括されている。基本的には同じだからそれでいいのかもしれないが、牛車はやはり「馬」車ではない。牛車地帯の私としては不満である。だからここでは牛馬対等に「牛馬車(ぎゆうばしや)」という言葉を使うことにした。

 話をもとに戻すが、牛馬車は非常に重宝なものだった。しかし、問題は牛馬車が通るためには道路がそれなりに広く、また曲折が少なくないとだめだということである。できればすれ違いができるくらいの幅がほしい。牛馬車は簡単にバックができないからだ。ところがそんなに広い道路はかつては多くなかった。とりわけ農道は未整備だった。明治以降耕地整理が進んだが、それは比較的安価に整理できる平場地帯が中心であり、盆地や起伏の激しい地域などは零細不整形区画の田畑が多く、田畑の道といえばあぜ道、つまり人間が歩くのがやっとというような細く曲がりくねった道が普通で、牛馬車が通れなかった。そこでやむを得ず、国道や市町村道など広い道路(といっても今のように広くはないが)に車をおき、田畑から稲などの生産物を背負い、あぜ道を通ったり田畑を横切ったりしてそこまで運んで車に積んだり、道路においた車から堆厩肥などの生産資材を何回かに分けてかついで田畑まで運んだりしたものだった。つまり人力と畜力の組み合わせで運搬するより他なかったのである。

 ところがそれもできない地帯があった。たとえば山間部がそうである。当時の技術水準では急傾斜地の多い山間部に広い道路をつくるなどは容易ではなく、ましてや棚田や段々畑などでは狭くて曲がりくねった道路しかつくれないので、牛馬車はもちろん、大八車を使うことも難しかった。
 だからこうした地帯では前に述べたような人力による運搬が普通だった。ただし田畑や山林を多く持っている農家は牛馬の背中に荷物を載せて運んでいた。岩手の山間部などでは小作人は地主あるいは本家から牛馬を借りて運搬していた。また牛馬の背に荷物をつけて往来することを商売とする農家もいた。
 しかし、平場では牛馬の背に載せて荷物を運ぶ姿はあまり見られなかった。

 牛馬車のもう一つの問題は、女子どもが自由に扱えないことである。手綱をとって歩くことはできるが、車と牛をつなげるのは容易ではない。下手して暴れられたりしたら、女子どもの手には負えない。歩いていても何かあったら困る。私も子どものころはやはり牛が怖かった。もちろん普段はおとなしい。しかし、たとえば牛が畑にある野菜を食べようとして歩き出したとき、子どもの力でそれを制止することができない。だから牛馬車は大人の男の扱うものだった。これが不便だった。

 そういう限界はあっても、人力からくらべると畜力ははるかに楽であり(まさに「馬力」があり)、私の生まれたころは過重労働からの脱却に踏み出しつつあった。といってもまだまだ人力中心、牛馬耕も前に書いたように重労働であることには変わりはなかったのだが。

注1:2019年7月18日掲載・「背中に背負って運ぶ作業」
   2019年7月25日掲載・「籾摺りと俵詰め」

注2:藤沢周平の小説「蝉しぐれ」、その映画・テレビに出てくる一シーン、父の亡骸を大八車に乗せて主人公とその恋人二人が涙を流しながら引く坂道のシーン、ご覧になった方はきっと忘れられないと思うのだが、あんな悲しいことにも大八車は利用されていた。



そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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