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農業構造改善事業と大型機械の導入【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第158回2021年8月5日

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農業基本法が制定された翌年の1962(昭37)年、政府は、旧来の農業構造を改善して生産性の高い大規模経営が担う農業構造に変えるという基本法の趣旨を実現するために、土地基盤整備や大型機械等の近代化施設の導入、生産の選択的拡大などの事業を行おうとする市町村を指定して、政府が補助や低利融資を行って援助するという「農業構造改善事業」を開始した。そのモデルとしていくつかのパイロット地区を指定してさらに有利な補助や融資を行うものとした。

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その事業の有利さにひかれて導入しようとする地域も出てきた。そしたら何と、稲作についていえば基盤整備のさいの区画は30アール、耕起はアメリカ製の大型トラクター、収穫は大型コンバイン、乾燥はライスセンターで行うようにするということが前提だった。躊躇はしたものの、高額の資金が必要とされる土地基盤整備を行うためにはやむを得ないとしていくつかの市町村はそれを導入した。

そうした事業実施地区のいくつかを私も視察させてもらったが、私には衝撃的だった。岩手県中央平坦部のある村で、事業により導入されたアメリカ製の大型コンバインによる収穫作業をみたときのことをその一例として語らせていただきたい。

まず驚いたのはコンバインの機体の大きさ・重さ、そしてタイヤの大きさ・太さだつた。こんなのが田んぼのなかに入ったら、タイヤが田んぼにのめりこみ、大きな深いタイヤ痕が残り、耕起・代掻き、田面の均平化、田植えの諸作業に支障を来たすのではなかろうか、それが心配になった(これは大型トラクターによる耕起・代掻きでも同様だった)。

稲刈りの後のやわらかい田んぼの土にめりこんでいる太い太いタイヤの跡がぐにゃぐにゃうねりながら続いている。何か傷痕のように見えた。田んぼが悲鳴をあげているような気がした。何だか知らないけれど、田んぼがかわいそうになった。

田畑の土は、できるかぎりやわらかく保つということを、農家の子どもは幼い頃からきびしくしつけられてきた。田畑のなかで遊んだりするのはもちろん作業以外で入るのは固く禁じられ、入ったりすると大声で怒られた。何も植えていない収穫後の田畑であっても、用事もなく入ることは許されなかった。他人の家の田畑によその子どもが踏み込んでも怒った。雪が深く積もったときだけ自由に田畑で遊び回り、走り回るのが許されるだけだった。作物が根を張る土地はやわらかくしていなければならず、また土地が硬くなっていては、鋤や鍬で田畑を起こすとき大変だからである。まさに腫れ物に触るように大事にしてきた。ところがその田に固く踏みしめられた深い轍(わだち=車輪の跡)がついている。それで傷痕に見えたのかもしれない。

大型コンバインの刈り取った跡に稲わら、籾殻がぐしゃぐしゃになって捨てられる。稲作が始まって以来大事に大事にして利用しつくしてきたものががである。しかもそのなかに収穫しつくせなかった籾が混じっている。もったいなかった、かわいそうだった。貧乏百姓の小倅だった私だからそんなことを感じたのだろうか。そうではなくて当時の日本人ならほとんどそう思ったのではなかろうか。

こんなことを思いながら田んぼを見ていたとき、稲刈りが終わったばかりの近くの田んぼのあぜ道に数人の中高年の女性が休んでいた。当時はまだ手刈りがほとんどだったから、その稲刈りに雇われてきた人たちだった。何となくあいさつして雑談になったとき、大型コンバインの話になった。一人が寂しそうにこんなことを言った。「大きい人たちはいいけど、私たち小さいものはいらなくなるんだね」と。この女性たちは経営面積の小さい農家で、農繁期に経営規模の大きい農家に雇われて日銭稼ぎをしているのだが、機械化で自分たちの労働力はいらなくなる、これからどうしたらいいのかとの不安をもらしたのである。

機械が労働力を追い出す、アメリカの作家スタインベックの小説「怒りの葡萄」の日本版が始まるのか、そんなことも考させたものだった。

さらにまたアメリカ型機械化は、前にも話したように、収穫した籾が稲わらといっしょになってぼろぼろ落ち、農民の感覚とはあわなかった。

籾の乾燥は棒掛け・はざ掛けではなく、ライスセンターという大型施設のによる火力乾燥となつた。太陽エネルギーではなく石油による乾燥、それが地球環境問題との関わりがあるなどということは当時だれも考えなかった。

直播、これもなかなかうまくいかなかった。乾田直播では一斉に集まってきた鳥により種籾が食べられ、湛水直播では大型区画のため風で起きる波が種籾を風下に寄せ集めて風下は密植、風上は疎植になりすぎ、収量はあがらず、作業もしにくいという問題が引き起こされたのである。

理想とするアメリカ型稲作は日本では難しかった。日本の農民の間尺にはあわなかったのである。それを一律におしつけようとする当時の構造改善事業には、農家からかなりの抵抗があった。そしてこの事業でむりやり導入した機械・施設の多くは定着しなかった。やがて大型コンバイン、トラクターを倉庫の隅で眠らせたり、売り払らったりする地域も出てきた。

本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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