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JAの活動:持続可能な社会を目指して 希望は農協運動にある

【評伝 田中豊稔】貫いた農協ジャーナリスト魂 今野聰 NPO野菜と文化のフォーラム監事2020年10月1日

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農協協会の創立者は田中豊稔。創刊90年の今年は没後25年にあたる。評伝をJA全農職員だった今野聰氏が綴る。

創立者:田中豊稔創立者:田中豊稔

創立時 時代は世界恐慌

「農業協同組合新聞」は、今年創刊90周年だという。スタートは1930(昭和5)年辺り。戦乱期の中断を含むが、この新聞発行は実に長い。発行元が一般社団法人農協協会である。創立者が田中豊稔(1907~1995)。87歳で亡くなって、既に25年強。創業者の存在は本紙読者の周辺でも、段々と薄れかかっている。

さて田中豊稔の評伝作業は、私が全農退職の前後から、ずっと心にあった。振り返ってみると、2000年当時、本紙発行場所は千代田区富士見の国家公務員共済ビルの地下1階にあった。JR中央線飯田橋駅で下車し、神楽坂と反対に真直ぐ歩いて行くと、間もなく行き当たる。

そもそも私は1995年から2年間、全農から日刊紙「日本農業新聞」に出向、そこで論説などを担当した。だから、新聞は読むだけの体験から取材と記事執筆に少し広がった。その所為で農協界の新聞各社(業界紙)の歴史は日刊紙と並んで興味あるテーマだった。

参考文献の一つに「田中豊稔さんを偲ぶ」(農協協会、1996年)がある。田中豊稔の生涯を書いておこう。1907年、佐賀県生まれ。1931(昭和6)年東京帝国大学卒。1932年に「経済更生新聞」を創刊。当時「産組豆新聞」または「紙の弾丸」と言われたという。戦後混乱期を乗り越えて生き抜いてきたことは驚くべきことだ。

時代は1929(昭和4)年から始まった世界恐慌の時代。農村は泥炭の苦しみだった。この時代から敗戦寸前まで、産業組合中央会(今日の農協中央会)は千石興太郎体制と言っても良い。絶対的権威だった。ところがなんと、田中は「産組豆新聞」に依って、千石興太郎と対決して、四つに組んだという。

おいおい触れるが、田中の根源にある記者エネルギーとは一体何か。その後、軍隊に徴兵され、ソ連抑留。1948年帰国。この時代は、戦後の農業会から新たな農業協同組合法に基づく新体制に移行した頃である。田中は、新農協連合会など就職先を求めたらしい。だが、戦後混乱期である。かなわなかった。

1949(昭和24)年、意を決して「全国農業協同組合協会」を設立。戦前ジャーナリズムを引き継ぎ、新たに「農業協同組合新聞」を創刊。1960年には社団法人農協協会になる。会長は石黒武重。戦前の農林次官、山形県知事、枢密院書記官長、戦後の幣原内閣で国務大臣法制局長官を歴任、日本生協連会長にもなった。

さて、協会幹部の佐々木女史に訊くと、この協会には正史はないという。分かる。正史をつくる余裕などあるまい。創立者田中豊稔は追悼冊子を読むと、類まれな農協ジャーナリストである。

私の記憶にも田中豊稔の存在は深い。ただし、本人と直接話した記憶は殆どない。しばしば大手町農協ビル地下一階の中華店で、一人コップ酒を飲んでいた姿が焼き付いている。どうも「農協人文化賞」(昭和53年が第1回)を創ったエネルギーが、これだ。だから俗称「豊年」さんだ。亡くなってすでに25年。改めて「豊年さん」の仕事を検証しよう。

田中豊稔の戦前

米どころ佐賀県生まれ。生誕前後の記録はない。東京帝国大学卒業時に書いた論文がある。1929(昭和4)年12月発行の「経友会」創立十周年事業に、田中豊稔論文「経済学と弁証法」である。この論文はタイトルだけからでも相当難解な感じがする。しかし現在まで原文を読む機会がない。

ついでにこの号の他作品の筆者だけ挙げれば、安井琢磨、大塚久雄など後々の有名な経済学者もいる。田中はどうも、生涯口外しなかったようだ。

田中は東大新人会に属した。1931(昭和6)年卒業。佐々木女史に訊くと、初めは「キネマ旬報」で2年働いたという。この雑誌は映画専門誌。創刊は実に古い。昨2019年が創刊100年という。田中は恐らく経済不況下、アルバイトを含めての2年間、この雑誌社で働いたのではないか。文筆には自信があったのだろう。かくて1931(昭和6)年「産業組合時報」に入社した。満州事変の起きた年である。

この辺り、創立者の生の話を引く。冊子に再録されている「経済更生新聞と千石興太郎」である。1981(昭和56)年8月4日、場所は神楽坂・志満金。「田中豊稔文筆五十年激励会」とある。追悼冊子全体のなかで3頁、実に短い話の記録である。思い出発言はいわば人生の締めくくりである。しかも、あの困難な時代で、いかにも時代を貫くジャーナリストらしい、核心部分の1936(昭和11)年を引く。

「産業組合中央会の志村源太郎会頭のあとを受けて、志立鉄次郎会頭(第4代)は産組の自立独立を掲げ徹底したリベラリストとして知られていたが、2・26事件のあと36年(昭11)五月、日本のファッショ化に反ぱつして満期退任された。

そのとき、後任の会頭問題が起こりました。当時の通例では、副会頭である月田藤三郎さん(初代全絹連会長・農学博士)が当然、昇格されると目されていたが、千石さんが有馬頼寧さんをかついだ。有馬さんは産組中央会理事であったが、千石さんは月田さんの昇格をチエックして、有馬さんを推した。これをきっかけに中央会の理事会は二つに割れた。その中に経済更生新聞が割り込むことになりました。アンチ千石に加担したのです。」

「経済更生新聞」はタブロイド版で、反対論で論陣を張ったという。つまり「産組豆新聞」である。豊稔の原点と言って良い。如何にも田中は記憶力抜群、投げた直球は相変わらず鋭かった。産組の実力者・千石興太郎と堂々渡り合い、一歩も譲らない。

この時代背景は服部知治「協同組合言論界の成立と開拓者たち」(古桑實編『協同組合運動への証言上巻』(日本経済評論社、1982年)所収が参考になる。服部は戦前の産業組合運動を巡る各種新聞媒体の誕生から廃刊に至る複雑な歴史経過を丁寧に記録した。産組中央会とは別に、在野ジャーナリズムは結局どうなっていたのか。

1936年には、在野産業組合言論界は『産業組合時報』、『経済更生新聞』、および『産業組合新聞』と『日本産業組合通信』の三系統で代表されることになり、日刊通信紙1、隔日刊新聞1、旬刊新聞1、月刊雑誌1を発行していた。

与論の喚起を主要任務とする産業組合系統の機関誌「中央産業組合新聞」が35年(昭和10年)9月に創刊された。中央産業新聞の組織者は、産業組合中央会を始め、全国、県の産業組合関係の諸団体で、普通新聞型4ページ、当初週2回の発行で始められた。

振り返ると、1929年(昭和4)に始まった世界恐慌が、日本に波及する。農村の経済不況と疲弊、それに対応したのが農林省の「農山漁村経済更生運動」である。奇しくも1936~37年を戦前で最も論戦が自由だった時代という歴史家がいる。当たらずとも遠からずではある。

田中豊稔の戦後

戦後に再出発して「農業協同組合新聞」となった。時代は混乱期。その時期に新聞原稿書き以外に田中作品はあるか。「農業協同組合経営実務 臨時増刊号」(通巻75号)―「農協人物読本」(昭和27年7月15日)がある。この臨時号の執筆者は有馬頼寧「産業組合時代の人々」、奥谷松治「協同組合理論家の系譜」、山崎勉治「産業組合簿記生誕記」など、当時の著名な論客、歴史記述家が寄稿している。田中豊稔の書き上げた本文は「千石興太郎の歩んだ道」。その「むすび」を引用する。

「もちろん、千石氏は単なる時局便乗主義者ではなく、資本主義の圧力の下に呻吟する農民大衆を救おうとする熱烈な信念の下で行動したであろう。また氏の置かれた支配的地位が、その意図に反して時局の渦の中に否応なしに巻き込んだともともいえよう。」

千石興太郎に仮託して、戦後農協界の未曽有の混乱と、生き返るべき全国農協指導連の自己改革の時代呻吟に、歴史的教訓を書き残した文章である。

他に田中には自著2冊ある。「日本の農協―農協二十年側面史」(609頁、昭和46年1月)、「生きている農協史」(272頁、昭和51年8月、家の光協会刊)。

追悼文二編―歴史観に裏打ちされて

続いて2編の追悼文を紹介する。先ず第1に、『金井満-協同組合に生きる』(思い出集刊行会、昭和53年6月1日)にある田中豊稔「千石さんを説得」。長い文章ではないが、意味深長である。既に何度も引用したから、この時代のことは触れない。そこで、「産組拡充五カ年計画」についてである。

「それは当時としては日本における中・長期計画の第一号だったようで、ソ連の第一次五か年計画の成功が宣伝されていたときだけに、千石も乗り気だったらしいが、産組内の保守層からは、赤かぶれだ、赤い運動と誤解されるおそれもあるという声もあったほどだ。この組織拡大運動は金井さんが千石氏に進言した様に信じられていたが、金井さんよると発議者は辻さんだったらしい。」

あくまでも、金井満に対する世間の偏見をカットする強い筆致である。このあたり、時代に生きた田中でなくては言えない。

もう一遍がある。「宮脇朝男」(顕彰記念事業会、昭和55年7月31日)所収の「宮脇氏と『組織決定』」。宮脇朝男全中会長を追悼した決定版である。全664頁。大平正芳総理大臣の題字が表紙を飾り、各界名士が連ねている。ここに田中の追悼文がある。この追悼文から、農協の総路線の分岐点の歴史的決定場面(1969年2月27日)。

「東京は大雪の日に、全日農の農民組合員一千名が農協ビルを急襲し、宮脇会長を九階ホールに連れ出し、大衆団交を行い、『一月九日の都道府県米対本部長会議の"自主流通米制"容認の決議を白紙に戻せ!』と激しく迫った。」

私はこの激闘の現場の団体交渉に参加した。大衆団交にルールはない。激闘だけである。

結論は「四月五日再び東京で全体会議を開き、前回の決議を賛成多数で押し切った。」

貫く農協ジャーナリスト精神

「亡くなる二日前、農協協会の佐々木さんが来て下さいましたが、その日は、おだやかな、とてもいい顔をしておりました。話しかけにも、いつになく反応もようございましたのでよろこんで居りました。それなのに翌日から少しおかしくなり、八日朝、眠るようにあの世に旅立ってしまいました。」

妻田中妙子さんは、追悼集のラストで、こう語った。再び農協ジャーナリスト精神とはなにか。一般紙とか専門紙とかの区別を問わない。農業者に生きる希望と指針を提供することだ。「コロナ禍」の吹き荒れる現在こそ、田中豊稔から学ぶことは多い。

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