JAの活動:沖縄復帰50年~JAおきなわが目指すもの~
激動の時代を戦い抜いた反骨精神 過去から未来へ JAおきなわが目指すもの・普天間理事長(1)【沖縄復帰50年】2022年5月16日
沖縄県は5月15日、日本本土復帰50周年を迎えた。また、今年の4月1日は県単一JAとしてのJAおきなわ発足から20周年の大きな節目でもあった。JAおきなわの歴史は、まさに沖縄人(ウチナーンチュ)の反骨精神で激動の時代を乗り越えた戦いの歴史でもあった。沖縄の社会・経済・文化と、その中に組み込まれる農業・農協組織の位置づけや役割などについて、過去と現在を検証しつつ、これからの未来をテーマに、JAおきなわの普天間朝重代表理事理事長に寄稿してもらった。
沖縄県農業協同組合代表理事理事長 普天間朝重氏
歴史に翻弄され続けた沖縄
唐(トー)ヌ世(ユー)から大和(ヤマト)の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世からまた大和の世、ヒルマサ(めずらしく) カワユル(変わる) クヌ(この)ウチナ~(沖縄)
(訳)中国の時代から日本の時代、日本の時代から米国の時代、米国の時代からまた日本の時代、めずらしく変わるこの沖縄
これは沖縄の民謡やフォークソングで歌われている歌詞の一部だ。
沖縄県は独立国としての琉球王国だったが、1609年、薩摩藩が侵攻してその属国となり、明治時代になって廃藩置県により沖縄県となり、名実ともに日本に編入され、第2次世界大戦での敗北を受けて今度は27年間米国統治下におかれ、1972年に本土復帰を果たすことになる。まさに沖縄は時代に翻弄され続けた地域だ。
こうした時代に翻弄されながらも未来を見据えて生き残るという思想的な根拠となっているのが、「ゆいまーる(相互扶助)」と「ちゃんぷるー(ごちゃまぜ)」であろう。小さな海洋国家ゆえにいつ侵略されるかわからない、現に何度も侵略を受けてきた経験から、生き残っていくためには地元の人間同士の助け合いと、常に諸外国の文化に敬意を表しながら自らもこうした諸外国の文化を取り入れて、共存共栄を図っていくという柔軟な姿勢が形成されていった。
繰り返される食糧危機とソテツ地獄
小さな島国ゆえに常に食糧危機と背中合わせなのが沖縄の特性であり、歴史である。食糧危機に関する沖縄県での事例を紹介しよう。
1923(大正12)年におこった関東大震災や、29(昭和4)年の世界恐慌に端を発する「昭和恐慌」が日本をはじめ沖縄の人々の生活を襲ったが、なかでも当時の沖縄の人口の7割が暮していた農村部では極度の不況のため米はおろか芋さえも口にできず、多くの農民が野生の蘇鉄(そてつ)を食糧にした。毒性を持つ蘇鉄は、調理法をあやまると死の危険性があるにもかかわらず、その実や幹で飢えをしのぐほかないほど農村は疲弊しきっていた。沖縄ではこれを「ソテツ地獄」と呼んだ。
その10年後に今度は第2次世界大戦に巻き込まれていく。戦後の経済活動は「ゼロからの出発」となり、住民は当面は配給物資でしのぐことになるが、農地は戦争で荒廃し、農村は金詰まりの状態にあり、食糧危機は深刻の度を増していた。例えば、離島の伊江島では「旱魃のため甘藷作は虫害80%という惨害を受け、加えるに寒冷季の暴風雨はこれに拍車を加え、芋の植付面積が狭小な同島では全面的に主食の欠乏を来し、村民の約8割が3食とも蘇鉄(そてつ)食をとらねばならない窮状にある・・・」(うるま新報 1949年4月11日)という状況だった。戦前の蘇鉄地獄の再来である。
世界で食糧危機が起きるたびに私自身本紙に食料自給率の重要性について執筆し、訴えてきたのも沖縄のこうした悲惨な歴史に裏打ちされたところが大きいのかもしれない。
米国占領下でのJAの戦い
第2次世界大戦の米軍による沖縄上陸、地上戦で沖縄の人口の4人に一人が戦死し、焼け野原となったなかで27年間米国占領下におかれることになる。
戦後復興は食糧増産から始まり、その後の換金作物としてのさとうきびの導入、拡大につながっていくのであるが、そこでは製糖工場の安定操業に向けて農家単位に「いつまでに出荷しなさい」という指示が工場側から示されるが、農家はその指示通りに出荷するために隣近所や親せきが協力してゆいまーる(共同作業)をつくり対応した。
農協組織は、農業組合→農協・信協併存(単営)→総合農協というように制度と形を変えながら展開していくのであるが、戦後復興の過程で当時の沖縄では決定的に資金不足であり、一部の米地帯では業者による青田買いが横行した。具体的には「換金作物の少ない北部では台風被害に基づく食糧難と飼料不足による養豚業の停止等で現金収入が少なく、1か月くらい前から噂されていた青田売買の現象が表面化してきている。・・・値段も籾百斤で800円から900円といわれている。籾百斤というと、精米すれば1,700円にもなる。つまり2か月も待てば倍額の収入になるにもかかわらず捨売りしている」(沖縄タイムス 1952年5月18日)という状況であり、このため農協組織では農漁業の中央金庫の設立を琉球政府に要請。その結果1952年12月に政府出資95%(当初は90%)で農林漁業中央金庫(当初は「協同組合中央金庫」)が発足し、農村に資金供給を行っていった。同時に農協組織自らも毎年貯蓄運動を精力的に展開し、全県の隅から隅まで駆けずり回って組合員に協力を呼びかけた。その一方で住民も家族や親せき、友人・知人で構成する模合(頼母子講)を活発化させ、自ら資金不足への対応を行っていった。沖縄人の逞しさの一端であり、ゆいまーる(相互扶助)の精神でもある。目的は異なるが現在でも各地で模合は続いており、構成員の親睦の場として利用されている。
「中金の広報車両を先頭に沖縄中を隈なく推進」
「職員は皆鉢巻をして推進活動に気合を入れる」
こうしたなか63年7月、米国民政府は農連を抜き打ち検査、農連に業務改善命令を発出するだけでなく会長を背任や横領などの罪で告訴した。琉球農連に突き付けられた勧告は、農連事業の株式移行や肥料事業廃止など。理由は、本土の貿易自由化政策によって沖縄の農業の合理化が急がれており、糖業、パイン、畜産などの合理化を進めなければならないが、農連が協同組合組織のため企業との統合・合併がうまくいかない。だから農連事業は株式移行すべき、としている。やむをえず農連では臨時総会を開催して製糖工場の民間との統合、畜産加工場の売却、パイン工場、農連市場の株式移行などを決議した。この一連の騒動を当時の沖縄では時の米国民政府高等弁務官の名前をとって「キャラウェイ旋風」と呼んだ。第2次世界大戦下の米軍による沖縄上陸を「鉄の暴風」と表現した学者がいたが、これはまさに「権力の暴風」だ。これに対して農協組織では「農協組織擁護総決起大会」を開催し、農連事業の株式移行に反対する決議や農連からの肥料事業取り上げに反対する決議を採択し、政府に猛烈に抗議したものだから、キャラウェイ高等弁務官退任後、琉球政府は「農連の事業は従来通り継続してよろしい」と態度を一変させた。激動する時代を生き抜いてきた沖縄人の反骨精神の賜物だ。
そしていよいよ1972年5月15日の本土復帰へと突き進むことになる。
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