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決断の火花・秀吉と政宗2016年12月11日

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【童門 冬二(歴史作家)】

 天正十八(一五九〇)年六月九日の朝九時に、箱根山中で二つの火花が飛んだ。飛ばしたのは豊臣秀吉と伊達政宗だ。そのころ秀吉は相模の北条氏を滅ぼすために、その本拠である小田原城を攻略していた。

◆秀吉の天下平定にそむく

 本陣を箱根山中に設け、そこから眼下に展開する豊臣軍の包囲ぶりを眺めていた。伊達政宗は六月四日にこの地に着いたが、秀吉はすぐには会わなかった。政宗に腹を立てていたからである。秀吉は関白になると同時に、全国の大名に指示を出した。それは、
「今後、土地争いのための合戦を認めない。このことを、至急京都に来て天皇に誓え。仲介はわしがする」という内容であった。わしが仲介をするというのは、そのまま、
「今後はわしに従え」という、大名に秀吉への臣従を促すものである。多くの大名はこれに従った。しかし従わない者が三人いた。薩摩の島津氏、四国の長宗我部氏、それに東北の伊達氏である。秀吉はこれを認めず、直ちに三氏に対し「征伐軍」を起こすことを宣言した。征伐というドラスティックな言葉を使ったのは、秀吉にすれば、
「この命令は天皇が出している。それに背く者は逆賊だ。したがってわしが率いる軍は豊臣軍ではない。天皇軍である、官軍である。したがって逆賊は征伐する」という考えだ。うまい天皇の利用の仕方である。まず四国の長宗我部氏を降し、次いで薩摩の島津氏を降伏させた。勢いに乗って小田原の北条氏を攻め始めたのである。この報が東北の伊達政宗にも届いた。しかし伊達家には古くから誇りがあった。それは源頼朝以来、
「伊達家は奥州探題(東北地方長官)である」というものだ。が、それは頼朝時代のことで現在そんな制度もなければ、職名もない。伊達氏の自称である。重臣たちは、
「秀吉ごとき成り上がり者は大したことはありません。迎え撃ちましょう」と強気の軍議を続けたが、政宗は疑った。一人重臣の中で政宗と同じ考えを持つ者がいた。片倉小十郎である。片倉は、
「秀吉は大きなハエのようなもので、追っても追っても執拗に迫ってきますぞ。この際は、一応秀吉に臣従したほうがよろしい」と意見した。政宗はこれに従った。そこでわずかな供を連れて、急ぎ箱根を目指したのである。しかし秀吉はすぐには会ってくれなかった。怒っていた。
「東北の猿(政宗のこと)は、生意気だ。若いくせに、わしを甘く見ている」と、成り上がり者らしいひがみ根性で、余計政宗を憎んでいた。政宗は現地に着いて、
「やはりわしは秀吉を甘く見ていた。片倉の言うとおりだった」と反省した。片倉が手を回して、かねてから政宗に好感を持っている前田利家・徳川家康・千利休などにはたらきかけて、秀吉へのとりなしを頼んだ。秀吉はやむを得ず、
「では、九日の朝九時に会おう」と、ようやく折れた。

◆ふたりの決断

(イラスト)大和坂和可 この日、政宗は真っ白な着物を着た。死に装束である。そして髪を切り、さんばら髪になって自分の決意を示した。片倉の助言によって政宗はすでに、
「秀吉に臣従しよう」と、降伏を決意していたのである。しかし彼も伊達者なので、簡単に秀吉に頭を下げる気はなかった。諸大名をあっと驚かせるパフォーマンスをおこなおうと心を決めていた。だからこんな格好をして、ずらりと並んだ大名たちの前を堂々と歩き始めたのである。その政宗を、秀吉は床机に腰かけて遠くのほうからじっとにらみつけていた。政宗がそばに来て膝をつくと、秀吉は持っていたつえで政宗の首をたたいた。
「小僧、遅いぞ。しかしもう少し遅ければ、ここの首が飛んでいたはずだ」
そう告げた。しかしそう言われても政宗はびくともせずに秀吉を見上げ、目礼した。そして、
「遅参、どうかお許しを」とわびた。これによって、政宗の秀吉への降伏は決定したのである。
 その政宗の態度を見て秀吉は立ち上がった。政宗に、
「ついてこい」と言った。政宗は従った。並ぶ大名たちが思わず、
「殿下(秀吉)」と声を放った。二人だけで歩くのは危険だ、という気持ちがすべての大名の胸に走ったからである。しかし秀吉は平然としていた。
「若造、来い」と促した。政宗は従った。秀吉には、大刀を持った小姓が続く。もしも政宗がその気になって、小姓から刀を奪おうと思えば簡単に手にすることができた。そして、大名たちが恐れたのは、
「刀を奪った政宗が、そのまま秀吉に切りかかれば秀吉は殺されてしまう」
 という恐怖心だったのである。したがって、若い政宗に、
「来い」
 と告げた秀吉も、大きな決断をしていた。それは大名たちの想像どおり、政宗がもしも小姓から刀を奪って自分に切りかかれば抵抗はできない。すぐ殺されてしまう。しかしこのときの秀吉は、場合によってはそういうことが起こるということを覚悟していた。その覚悟の上に立った決断である。秀吉は、
(この若者と二人になって、本心を見抜こう)
 と考えていたからだ。秀吉は政宗を崖の端に案内した。ここからは、小田原城がよく見える。そして小田原城を囲んだ豊臣軍二十万の光景がまざまざと観察できた。小田原城を囲んでいるのは陸上だけではない。海上にもたくさんの軍船が浮かんでいた。水陸両面から小田原城は囲まれている。政宗は心の中でうなった。
(とんでもない大軍だ。これだけの軍勢を相手にしては、さすがの北条氏も間もなく降伏せざるを得なかろう。その恐ろしい軍に対して、わしは背こうとしていたのだ)
 と、改めて片倉の言った、
「秀吉は巨大なハエです。追っても追ってもやってきます。実に恐ろしい虫です」
 と言っていた言葉を思い出した。そのとおりだと思った。だから、この一瞬に政宗の持つ秀吉への反抗心と、秀吉の、政宗を絶対に屈服させてやるという決断とが、大きな火花となって激突したのである。しかし勝負はついた。秀吉の勝ちである。秀吉の放った火花が、政宗の放った火花を圧倒し消してしまったのだ。政宗は再び膝をついた。そして、
「殿下、恐れ入りました。まことに申しわけない次第です」と、心から謝罪した。秀吉はうなずいた。そして、
「事情を知らぬそなたがわしに背こうとした気持ちはよくわかる。ただ、今後はわしに協力してくれ、な」
 そう言って、秀吉は静かに政宗の肩に手を置いた。こうなったときの秀吉はそれまでとは心を一変させる。つまり一つ決断することによって、古い秀吉は死んでしまう。そして新しい秀吉が生まれる。それは、
「天下人としての威厳」
 に満ちた存在に成りかわる。
(イラスト)大和坂和可

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