畑苗代の導入【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第165回2021年9月30日
戦後の安定多收を可能にした保温折衷苗代の普及が一順し、深耕と適期作業により増収をはかるために不可欠のものとして導入された動力耕耘(こううん)機の響きが聞かれるようになったころ、そのうちのひとつの保温折衷苗代が、いや苗代それ自体が田んぼで見られなくなってきた。苗が田んぼでなく、畑で、「畑苗代」で育てられるようになってきたからである。

これには驚いた。水がなければ稲は育たない、ましてや苗にはたっぷり水やらなければならないものだという観念が頭に染み付いているわたくしなどにはどうしても納得できなかった。そしたら父はいう、水がないと水を求めて根がたくさん出て、水を吸う力はかえって強くなる、だから本田に植えた後の根の成長、張り具合がよくなり、分蘖(ぶんげつ)もよく、収量も増えるのだと言う。
何となくわかったような気がするが、本田に田植えをするときの苗の小ささ、何か植えにくかった。小さいから軽いのは楽だったが。まあ慣れたら何とも感じなくなったが、水にかくれそうなこんなに小さい苗で大丈夫なのか、本当にこれで育つのか、心配なほどだった。
私の生家では、家屋敷の前の畑にこの「畑苗代」をつくった。畑に保温折衷苗代と同じように短冊状に苗床をつくり、そこの土を細かく砕いてふかふかにし、水をたっぷりまいて播種をし、保温保水のために直接その上をビニールで被覆し、さらにそれをビニールトンネルで覆うのである。
そして生育状況や温度、水分等を見ながら、ビニールを外したり、またかけたり、夜の寒さを防ぐためにトンネルを菰(こも)で覆ったり、水をやったり、草取りをしたり等の管理をする。家の前だから、またそのころは水道が通っていたから、こうした管理は簡単にできる。田んぼ(=本田)からは遠くなるが、苗運びはリアカーか天秤棒でかついでいけばいいし、動力耕耘機の後ろに苗を載せたリアカーをつないでいけばさらに楽である。小型トラックも普及し始めている。
この畑苗代での苗引き作業はこれまでの水苗代よりずっと楽になった。泥のなかを歩きまわる必要はなくなり、ぬかるみのなかでの腰を曲げた労働から解放され、乾いた土の上で座りながらあるいは腰掛けながら作業がやれるようになったのである。
私の生家のある山形では、この苗引きは女性の役割、田植えのように植えながら泥土の中を歩かなくともいいので楽だが、ほぼ同じ姿勢で屈みながら苗引きをする、これもけっこうな労働だった。
畑苗代はまさにこの女性の重労働からの解放だった。田植え期になると私といっしょに手伝いに帰る家内も簡単にやれ、ましてや畑苗代が家の目の前にあったので家事の合間に手伝うことができ、お手伝いの親戚や近所の人とおしゃべりしながらの苗引きは楽しかったと今でも話す。
この畑苗代そして幼苗での移植は、田植え時期をさらに早めることになった(増収のための早撒き早植えが推奨されていた)。
それだけではない、畑苗代の技術は後の田植機の稚苗(ちびょう)移植技術の開発の基礎ともなった。そういう意味でもこの畑苗代の開発普及は大きな意味をもつものであった。もちろんそんなことは当時まだだれも考えてみなかった。あんな複雑な田植えの作業を機械化できるなどということは考えられなかったからである。それは後の話にするが。
「苗半作」とか「苗代半作」とか言う言葉があった。苗代で育てる苗の良否が本田での生育や最終的な収量を左右する、良い苗を育てることは,収量の半分が保障されたようなものだというのである。そこで苗代を大事にし、育苗技術の向上に力を注ぎ、戦後も保温折衷苗代の導入を進める等してきたのだが、畑苗代、稚苗移植も健苗育成、早撒き早植えと生育期間の延長による安定多收を追求する農家に積極的に導入され、また普及していった。
同時に、農家は化学肥料と農薬の多投肥による多收を追求していった。
(注)2020年6月25日掲載・本稿・第104回「保温折衷苗代と誘蛾灯」参照
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