基本法改正案 食料安全保障の理念をクリアに 横浜国立大学名誉教授・田代洋一氏2024年3月4日
政府は食料・農業・農村基本法の改正法案を2月27日の閣議で決定し国会に提出した。改正法案では基本理念で「食料安全保障の確保」を規定したほか、環境と調和のとれた食料システムの確立も掲げた。改正基本法をどう見るか、田代洋一横浜国大名誉教授が問題点を指摘する。
横浜国立大学名誉教授 田代洋一氏
基本法改正案が国会に提出された(JAcom2月14日)。これまでの関係各位の労を多としつつ、法案に一層の磨きがかかることを期待し、理念、食料安全保障の部分についてコメントする。
理念の力を信じる
まず確認すべきは、基本法はあくまで理念法である。首相は、施政方針演説で基本法を「農政の憲法」と呼んだが、間違いだ。憲法や実体法は権利付与や罰則を伴うが、基本法にそれはなく、あくまで農業や農政を方向付けるための理念法である。では理念に力はあるのか。世界が暴力と政治不信に満ちている今日、理念の力を信じずして何を信じるのか。理念が力を持つには国民の信頼を得るしかない。そのためには理念がクリアである必要がある。
国民は今、三つのことを懸念している。理念はそれに応える必要がある。第一に、侵略戦争、インフレ、社会格差の深化のなかで食料を安定的に確保できるのか。第二に、酷暑の夏など異常気象、自然災害の多発のなかでカーボンニュートラルを達成できるのか。第三に、市場や競争に全てを委ねることができないなかで国や協同は力を発揮できるのか。
食料安全保障の理念をもっとクリアに
法案の第1条(目的)は「食料安全保障」を銘記し、第2条の「食料の安定供給の確保」という見出しも、食料安全保障の確保」に改められた。食料安保一本鎗に懸念はあるが、ひとつまず評価されよう。
それに伴い3点が付加された。第一に、食料安全保障の定義として「国民一人一人がこれを入手できる状態」、第二に、「食料の安定的な供給」確保の手段として「海外への輸出を図ること」、第三に、「合理的な価格」には「合理的な費用が配慮」される必要。まず、第一、第二の点にふれる。
「国民一人一人」は、格差社会化が深まるなかで必須であり、また国家安全保障の環としての食料安全保障を「国民生活の安全保障」に変える意義を持つ。しかしそれを具体化した第19条は、「食料の輸送手段の確保」「食料の寄附」に触れるのみ。買い物難民対策や子ども食堂、フードバンクそれ自体は必須だ。しかし「一人一人」の確保を阻む根底にある格差社会の深化の前には、重篤なガン患者に絆創膏を張るようなものだ。一農政の枠を超えるとはいえ、格差社会深化を見据えた理念であってほしい。
日本農業に輸出が不可欠なこともそのとおりだ。しかし農業の輸出産業化をもって食料安全保障とする国があるだろうか。「不測時には輸出仕向けを国内仕向けに転換できるから」というのも一つの理由だろうが、日本はWTO農業協定提案(2000年)において、輸入大国として、輸出の制限・禁止に対して断固反対した。まずは内需の深堀りに心血を注ぐべきだ。
食料自給率はどこへいった
現行法と変わらない点もある。それは理念規定から「食料自給率」の言葉を排除した点だ。現行法の制定当時は、農産物過剰下で生産刺激的政策を削減対象とするWTO農業協定が目を光らせていた。そこで自給率向上=生産的刺激的と受け取られることを避けた節はある(それも「国内の農業生産の増大を図る」の追加で無効になったが)。
しかし今や世界の穀物在庫率は低迷し、過剰の時代は去った。堂々と「自給率向上」を主張できるのに、今回もそうしなかった。
日本の食料安全保障は、食料自給率向上を必要条件とし、「一人一人」を十分条件とすることを明確化すべきである。
他方、基本計画(2章1節)では「食料安全保障の確保に関する事項の目標」として「食料自給率その他」を掲げるとした。「見直し」であれだけ食料自給率の単独目標を批判し、多数指標の必要を強調したのに、いざ法案となったら「その他」に逃げたわけだ。
そもそも、国民は多数目標を示されても途惑うだけで、既に国民生活に根づいた食料自給率を筆頭に置くことは妥当だが、せめてもう少し例示すべきだろう。
かくして、「その他」の具体をはじめ、大方の関心は既に2025年策定の基本計画に移っている。しかし留意すべきは、基本計画は国会に報告されるものの、あくまで一つの行政計画に過ぎず、理念法と同様に法的拘束力があるわけではない。法改正では、少なくとも年1回、達成状況をネット等で公表する点を目玉にしているが、それは、国会報告でも何でもなく、「流しっぱなしの情報」に過ぎない。
関連して、年次報告(白書)から「講じようとする施策」を削除した。とりわけ現行法は「講じようとする施策」を重視し、審議会の意見も聴くこととしてきただけに、腑に落ちない。
合理的な価格形成には労働費が鍵
食料安全保障の一環として「合理的な価格の形成」が規定された。再生産の保障なくして国内からの安定的な食料供給はあり得ず、その点は評価される。しかし問題も多い。
第一に、「合理的な価格」を英訳したらどうなるか。恐らくreasonable(リーズナブル)だろう。それを再和訳したら、庶民用語では「安い」、だ。言葉からして腰砕けしていないか。
第二に、「合理的な価格」「合理的な費用」で専ら注目されているのは物財費だが、費用のもう一半を構成するのは労働費だ。しかるに、コロナインフレ前の2019年の1時間当たり農業所得をとっても、水田作経営は208円。比較的高収益の花卉栽培をとっても、施設は989円でかろうじて最低賃金制賃金並みだが、露地は641円。
この労働費をせめて最賃制賃金並みに評価して、それを価格転嫁したらどうなるか。国内農産物は高騰し、消費者の手は届かず、「一人一人」の食料安全保障は遠のき、需要は輸入品に向かい国内農業は衰退し自給率も劇落する。
つまり労働費を保障するには価格転嫁だけではどうにもならず、国の直接所得支払いが不可欠になる。他方、いま日本は財政インフレの危機にあり、岸田内閣は防衛予算43兆円等を掲げてそれを促進しようとしている。そのなかで食料安全保障、そして直接所得支払いをはじめ農林予算をどう確保するのか。その課題を厳しく見つめ、国民に訴える覚悟がいる。少なくとも法制定時の付帯決議が不可欠だろう。
「合理的な価格形成」の第三の問題点は、改正法の目玉とされながら、改正時に法案を準備できなかったことだ。理念法の実現には、制定時に関連する実体法を立法することが不可欠だが、間に合わなかった。2025年基本計画には間に合うのだろうか。現状では42条3項の「農業資材の価格の著しい変動時」の施策で打ち止めかもしれない。しかし同条の対象は「育成すべき農業経営」に限定されるので、多くの経営が対象外になりかねない。
改正法の真の理念―環境負荷低減
以上、食料安全保障についてコメントしてきたが、実は改正法案の真の基本理念は食料安全保障それ自体ではない。食料安全保障や多面的機能は「環境への負荷の低減が図られる」ように追求されねばならない(3~5条)。とすれば、食料安全保障や多面的機能の唯一の追求方法としての環境負荷低減こそ究極理念といえる。折から世界は2050年カーボンニュートラル化を目指している。改正法が今後20年程度を射程に入れるすれば、このようなグローバル課題にリンクすべきだ。
その点は既に「みどりの食料システム法」に盛られているというかもしれないが、同法は余りに技術開発偏重的で、かつペナルティ的活用が目論まれている。他方で助成を削減しつつ一面的に環境を追求することに対しては、ヨーロッパではトラクター農民デモが多発している。再生産確保とのバランスをとった環境負荷低減の目標が基本法(基本計画)にも盛り込まれるべきである。関連して、アニマルウエルフェアが盛り込まれないのも残念である。
食料安全保障を前面に出したこと自体はひとまず評価されるが、いささか「まくら言葉」化していないか。国会審議に向けてどんどん注文を出していくべきである。
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