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【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第84回 稲穂から白米までのその昔の作業2020年1月23日

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【酒井惇一・東北大学名誉教授】

 戦後の学制改革でできたばかりの中学校(当時新制中学と呼ばれた)に私たちは入学したが、、その「社会」の授業(「職業家庭」の授業だったかもしれない)で、「千歯扱き」という名前を初めて聞いた。それが強く印象に残ったのはその別名を「後家殺し」と言ったという話からだった。

20190606 コラム 昔の農村・今の世の中 見出し画像


 いうまでもないが、食べられる米にするためには稲の茎の上部についている穂から米粒の入った籾=籾米を取り離すこと、つまり「稲を扱(こ)く」作業=脱穀がまず必要となる。
 人間が稲作を始めた最初の頃は左手で稲の穂をもち、右手の指で籾米をむしりとったのだろうと言われているようだが、当然のことながら手は血が出るほど荒れ、能率も低かったろう。

 それを解決するためにさまざまな工夫がなされたと思うのだが、その一つに「扱箸(こきばし)」という道具の開発があり、竹を割ってつくった二本の棒を手に持ち、その間に乾燥した稲穂をはさんで引いて籾を落としたとのことである。いうまでもなくこれはきわめて非効率で多くの人手を必要とするので雇用に頼らざるを得なかった。その需要に応えたのが村落内の未亡人であり、そこで得られる雇用労賃は彼女らの貴重な収入源となっていたと言う。
 ところが江戸時代後期に千歯扱きが発明された。槍のように尖らせた細い竹もしくは鉄の棒を何本か櫛の歯のように水平に並べて木の台に取り付け、その歯の部分に稲穂をひっかけて手前に引き、籾米をしごいて取り離すというものである。これは稲束のまま一気に脱穀できるので非常に能率がよい。しかし、そのおかげでさきほど言った後家さんの稲扱きの雇われ仕事がなくなり、暮らしが成り立たなくなった、それで「後家殺し」というあだ名が千歯扱きについたというのである。

 これはショックだった。便利になること、楽になることが弱い立場にある人々に苦しみをもたらす、なぜかこの矛盾が心にひっかかり、この話が強く記憶に残ったのである。

 ここでちょっと脱線、私は「後家殺し」と記憶しているのでここではそのまま使ったが、「後家倒し」というのが正確らしい。
 それからもう一つ、私は千歯扱きを見たことがなかった。前に述べたように私の生まれたころには足踏み脱穀機が使われており、その話を聞いた戦後には電動脱穀機に変わっていたからである。でも足踏み脱穀機が普及したのは大正初期、それからあまり時間も経っていないのだから生家に残っていてもよかったはずなのに、写真や博物館で見るしかなかった。それが何と、昭和も末の頃、生家の小屋の二階の物置の片隅にひっそりと隠れているのが偶然見つかった。槍のようにとがった歯はもう赤錆びていたが、そこに先祖の汗が、あるいは荒れた手から流れた血がついているような気がしてちょっと胸が詰まったものだった。

 農家の秋は忙しかった。雪国では雪の降る前に(南国では水田裏作の麦の蒔き付けの前に)田んぼでの仕事をすましておかなければならず、さらに年末までに地主に小作料として穫れた米の半分近くを納めなければならなかったからである。しかもその米の質がよくないと地主から納入を拒否される。
 だから足踏み脱穀機は急速に普及した。これは明治末に開発されたもので、実物は博物館等で見たことがおありだろうが、要するに逆V字型の針金を埋め込んだ回転胴を人力=人間の脚の力で回し、そこに手で稲束を差し込んで籾米を稲わらから落とす器械である。「千歯扱き」にくらべたらこの能率のよさは比較にならず、本当に楽になった。

 残る問題は籾から籾殻を除去して玄米にする籾摺りだった。私の生まれたころ(昭和初頭)には動力籾摺り機が生家で使われていたので、それ以前にどのようにして籾摺りしたのかはまったくわからない。ただ、生家に臼の一部が残っており、それで籾摺りをしたのだという話を聞いたことがあるだけだったが、二つの土臼を重ねてその間に籾を入れ、下の土臼は固定して上の土臼を人力もしくは水力でぐるぐる回して摩擦することで籾殻をはがし、剥がれた籾殻を取り除いて玄米とするのだそうである(自分で直接見ていないのでうまく説明できないが)。これはかなり大変な労働で時間もかかった上に多くの砕け米を発生させていたとのことである。
 こうして籾殻をはずしたあと、唐(とう)箕(み)にかけられる。農業博物館などでよく見られるので若い人もご存じだろうが、手回しハンドルで羽根車を回転させて風力を起こし、玄米に混入しているわら屑やごみ、未熟粒を選別するのである。なお、動力籾摺機は籾摺りと同時こうした選別を大方してくれるので、私の生家では唐箕はたまにしか米に使われず、大豆等の穀物の選別に使われていた。

 次に精米となるが、これまた私の生まれた頃には動力精米機が導入されていたのでそれ以前のことは話に聞くだけ、臼に玄米を入れて杵でついたり、唐臼でついたりしたものだという。なお、川が近くにある地域では水力を利用してついていた。
 最後は千石通し(せんごくどおし)にかけて、糠や小米と白米とに選別する。

 これでようやく販売用、小作料用、自家飯米用の白米ができるわけだが、収穫後にかなりの労働が必要とされる上に、とりわけ臼ひきによる籾摺りでは砕け米が発生しやすいことて農家は困っていたという。

そのほか、本コラムの記事一覧は下記リンクよりご覧下さい。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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