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戦後復興期の野菜販売と農協【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第126回2020年11月26日

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旧山形市の外れにあった私の生家から200メートルくらい離れたところにUちゃんと呼ばれていた父の友人の家があった。Uちゃんは評判の働き者だったが、小作農だったために家は本当に貧しかった。戦後の農地改革で土地が自分のものになり、働けば働いただけ自分の所得になる、ますます一所懸命働いた。私の父のところにも何かあるとやって来て栽培方法などの相談をしたりしていた。

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戦後復興期のある年の秋遅く、そのUちゃんが畑の近くの線路で貨物列車にはねられて死んだ。その年は東京の市場に出荷した白菜の価格が大暴落した年だった。Uちゃんはそのことで頭がいっぱいで列車が後ろから来るのに気がつかず轢かれてしまったのではないかという評判がたった。そして父などUちゃんの友人たちは、「これから白菜の価格が暴落した年になると、そういえばUちゃんの死んだ年はそういう年だったなと思い出すだろうな」などと言いながら、どぶろくを飲んでUちゃんを偲んでいた。

あの大暴落の年、私は私で、あれだけ労力を投じてなぜあんなに安い値段になってしまうのか、なぜ生産した農家が値段を決めるのではなくて市場や八百屋が勝手に決めるのか、これがどうしても納得できず、世の中の仕組みを何とか変えなくてはなどと思ったものだった。

ところで、いまだに印象に残っているこの大暴落の年=Uちゃんの亡くなった年、これが何年だったか思い出せない。年はとりたくないものだ、私の中学時代の1950(昭25)年前後だったことは間違いないのだが。

1951年、私の高1の時だったはずである、父が組合長をしていた出荷組合で大きな問題が起きた。ある農家がみんなで決めたトマトの規格をまもらず、不良品を出荷したというのである。東京の市場からはクレームがくる、全員の価格がしかも連日下がるで大問題になった。早速調べた。犯人はわかった。少しくらい悪いものを出しても気がつかないだろう、気がついても文句はこないだろうとズルをしたようなのである。共販とは何かを理解していない組合員がいたのである。早速総会を開いてみんなで決めた、もしも組合で決めた規格をまもらない場合は二週間出荷停止とすると。この罰をうけた農家は大変だった、何しろ最盛期のトマトが売れず、大半を捨てなければならなくなったからである。しかし、他の農家も大変だった。市場の信頼が回復するまで長期間低価格に甘んじなければならず、やはり被害をこうむっていたのである。

共同販売とは、大市場とはどういうものか、まだみんな勉強中だった。

その翌年、今度は市場側が問題を起こした。荷受会社が白菜の代金を送ってよこさないのである。たしか100万円を超していたはず、今でいえば数千万円、父たちは何度か取り立てに行ったが払わない。東京の知人に取り立てを頼んで何とか払わせたが、全額回収はできなかったはずである。

そういうと、なぜそういうときに農協が動かないのか、農協を動かさないのかといわれるかもしれない。しかし、あの当時、農家はだれも農協など相手にしなかった。

戦中の食糧統制機構としてつくられた「農業会」が戦後「農協」と看板を塗り替えただけ、米の供出、肥料の配給を地域単位につくられた実行組合を通じてやり、農家が秋に運んできた米を米穀倉庫に入れて管理するだけ、それ以外何の役にもたたなかったからである。まともに販売、購買事業をやれるような能力もなし、営農指導員は頼りにならず農業改良普及員に相談した方がずっといい。肥料等の生産資材は商人から従来通り買った方がいい、いろいろ詳しく知っていて教えてくれるし、支払いを出来秋まで待ってもくれる。しかも農協には農業会時代から引き継いだ不良資産もあり、そんなところに貯金したら大変だ、郵便局で十分だ。それで組合員はまた農協から離れる。そして赤字を抱えて倒産寸前、こんな農協すら見られるようになってきた。

しかし、これでは農家は安心して農業を続けることはできず、食料増産も難しく、国民的な課題であった食料危機からの脱却ができない。そこで1951年、国会は農林漁業組合再建整備法を制定し、農協は国の支援を受けて再建整備に取り組むことになった。
もう一方で、農家組合員も農協の強化の必要性を認識し、積極的に活動に参加しようと考えるようになっていた。戦中から引き継がれてきた統制経済からの市場経済への移行に対応して経営と生活をまもっていくためには共同販売、共同購入をはじめとする協同の力を発揮していくしかない、そのために農協を強化し、そこに結集していくしかないと考えるようになってきたのである。そんなこともあって農家は農協の再建整備にあたっての出資金増強に応じ、同時に運営にも利用にも参加するようになってきた。

私の生家の加入している農協があの当時どういう状況にあったのか、私は具体的なことは知らない。いずれにせよ同じような状況にあったのだろう。

そして出荷組合は54年から(だったと思う)農協を経由して東京や仙台に出荷するようになり、父たちは農協の職員とともに市場開拓に、産地視察に歩くようになり、市内の野菜生産販売はさらに伸びていった。また、増加する化学肥料や農薬、農業機械等の生産資材の共同購入にも取り組んだ。

他の地域の農協もそうで、組合員の結集が進んだ。そして農協はやがて大きな力を発揮するようになっていくのである。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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