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笹の実と竹の実【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第370回2025年12月25日

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笹の実、改めてネットの辞書で検索してみたら、次のように出てきた。
「笹の実 自然粳(じねんご)」(『コトバンク』)
 「ササの実。じねんご。凶作の年には食料とした」(『大辞林』)
「竹の実。自然粳(じねんご)」(『デジタル大辞泉』)
基本的には『広辞苑』と同じだった。ただ「自然粳」は『広辞苑』の「自然粇」と一字違う。しかし読み方は同じ「じねんご」であり、「粳」は「うるち」、「粇」は「ぬか」という意味で、「粇」は「粳」の異字体でもあるとのことである。したがって両者は同じものと考えていいであろう。
 なお、パソコンで検索した辞書では「自然粳」と書いているのが多いので、これからはこの漢字を用いることにする。

ここでふと疑問を抱いてしまった。辞書によって「自然粳」=笹の実と言っているもの、自然粳=竹の実と説明しているものとの2種類あることだ。
 私は笹と竹とは違う物、似てはいるが笹は背が低く、幹は細く、葉は長く幅広いもの、竹は背が高く、かぐや姫が入る程度に幹が太く、葉は細長いものだと思っていた。
 ところがその種子は同じ名前で呼ばれているのである。ということは、笹と竹は同じ種(しゆ)だということなのだろうか。違うとすればどこがどう違うのか。
その説明をしているのは一つだけだった、竹は成長すると稈鞘が剥がれ落ち、茎が露出するもの、笹は成長しても稈鞘(笹・竹の小さい頃の皮)が茎に残ったままのものだという。葉の太さ細さ、茎の高さ低さで区別するのではなさそうなのである。
一方で笹の実も竹の実もその種子は「自然粳」と呼ばれる。
 また両方とも、稲の凶作の年に、あるいは百年に一度、花が咲き、実をつけるものだと言われている。
これはどういうことなのだろうか。

1945(昭20)年、敗戦の年、米は大凶作だった。一方、笹の実は大豊作たった。近所に疎開してきた人が山に行って取ってきた、それを見せてもらった。小麦の実を細く小さくしたような、黄色味がかった茶色をしていた。その人の家でどうやって食べたのか、麦ご飯のように米と混ぜて食べたのか、そのまま炊いて食べたのかわからない。量はそんなに多くなかったので麦ご飯のように米と混ぜて食べるのだろうと思ったのだが、実際にどうだったかは聞いていない。
だから私は笹の実という意味での自然粳は知っているということになる。

 ただし、私は竹についてはその年に花が咲いたかどうか聞いていない。笹と同じように百年に一度花が咲くなどと言われているようだが、私の生家(山形市)の近くにも竹林があるが、そこで実が生ったという話も聞いていない。

ここで疑問となった、そもそも笹と竹はどこがどう違うのか、最初に述べたように、無笹の実も竹の実も同じく自然粳(じねんご)と呼んでいる地域もそれがはっきりしない。
 私たちは一般に背が高く伸びるのが竹、低くしかならないものを笹と呼んでいるが、これは間違いで竹でも低いものがあり、笹でも背が高いものもあるのだそうである。
違いは、成長したときにタケノコの皮(稈鞘)が剥がれ落ちるか、残るかにあるのだそうである。茎から剥がれ落ちるのが竹、落ちないのが笹なのだそうである。
それから竹は一つの節から2本の枝が出が、笹は3本以上の枝が出ること、竹の葉脈は格子状だが、笹は平行に伸びていることにも違いがあるとのことである。
さらにもう一つ、竹は寒冷地では育たず、笹は寒冷地でも育つのだそうだ。たしかにそうだ、北海道や高山に行くと背の高い竹はみられない。私が北海道の網走にいたころ平地で竹の子取りをしたが、それは都府県では高山でしか採れないような細くて小さいタケノコ、これは皮付きのまま焼いて味噌をつけて食べると最高にうまい。家内と二人、車でちょっと行って採ってきて毎年食べたものだった。
 これは「笹竹の子」と呼ばれているが、孟宗竹の竹の子などとはその大きさがまるっきり違う。
このように違うのに、竹の実も笹の実もともに自然粳(じねんご)と呼ばれる、これがよくわからない。

 考えて見たら、こうした竹と笹の混同は文部省もやっていた。文部省唱歌の「たなばたさま」の歌詞がそうだ(季節外れの話で申し訳ないが)。
「笹の葉さらさら 軒端にゆれる
    お星さまキラキラ 金銀砂子」(注)
短冊などの飾りをつけていめのは背の高い竹であり、背が低くて幹の太くならない笹は使われない、にもかかわらず「笹の葉さらさら」と歌わせる、文部省ともあろうものがどうしたことだろうか。笹は竹の親戚なのだから、昔からそう言われてきたのだから目くじらをたてるな、ということなのだろうか。

もう一つわからないことは、この「じねんご」と呼ぶ集落が、山形の中央部の出羽三山の近くにあり、さらに鳥海山の秋田県側の麓にもあることだ。もしかしたらもっと別の山間部の地域にもあるのではなかろうか。笹竹は各地にとりわけ山村、寒冷地に生えているから、その名をとってつけることは十分にあり得るからだ。。
そして笹竹の子は「じねんご」と呼ばれ、それが生える地域であることからそこの集落は次年子と名付けられるようになる。こういうことなのではなかろうか。

なお、山形の次年子は、雪が深く冬は交通途絶となって孤立する、それで冬に子どもが生まれてもその出生届を出すのは次年度になる、それて「次年子」と呼ばれるようになった、という説がある、まああり得るとは思うが、私は笑い話として聞いている。

などと書いているうちに何と、今年も終りを迎えることになってしまった。
2025年、長年住んだ東北を離れて東京へ、自立した生活から老人ホーム暮らしへと、今年は私にとって激変の年だった。また夏には一ヶ月入院するなど、ご迷惑をおかけした年だった。
 そして来年は何と91歳を迎えることになった。長生きしたと慶ぶべきなのか、長く生き過ぎたと身をさらに縮めるべきなのか迷うところではあるが、ともかく本稿の読者と編集部の方々にはよいお年をお迎えくださるようお願いして、本年度の執筆いやキーボード打ちをお開きにさせていただく。

正月を前にしてふと頭に浮かんだことがある、正月に門前などに飾られる「門松」、松ばかりでなく「竹」も飾りの中心をなしているのに、「竹」がその名前に入っていないことだ、これは不平等ではなかろうか、「門松竹」への名称改正運動でも来年展開しようか、この忙しい世の中、誰も相手にしてくれないだろうが。
 来年の話をすると鬼が笑うとか、いっしょに笑いましょうか。

 今年は引っ越しや病気で休んだり等々 いろいろご迷惑をおかけしました。
 よいお正月をお迎えください。

(注)作詞:権藤はなよ・補作詞:林柳波、作曲:下総皖一、1899(明32)年

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