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【プレミアムトーク・人生一路】佐久総合病院名誉院長 夏川周介氏(中)農村医療と経営は両輪(1)2025年12月16日

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農村医療の先駆的存在である長野県厚生連佐久総合病院名誉院長の夏川周介氏。初代院長の若月俊一の理念とリアリズム精神を継承し、地域包括医療に尽力した。前回に続き、病院の礎を築く過程を文芸アナリストの大金義昭氏が聞いた。

佐久総合病院名誉院長 夏川周介氏佐久総合病院名誉院長 夏川周介氏

――40数年前に「峠の群像」というNHKの大河ドラマがありましたが、まずは「佐久総合病院」の礎を築いた「群像」について触れていただけますか。

若月俊一先生は皆さんよくご存じだと思います。戦争末期の1945年春に東京から家族を連れて長野県の佐久に来られ、小さな病院の外科医長として農村の地域医療に徒手空拳で挑みました。初代院長だった内科医の松岡精二先生など総勢7人の小さな農業会立病院でした。戦後は厚生連病院としての歩みを重ね、今日に至る先端的な巨大病院の礎を築き上げます。

病院は1人だけでは大きくなれません。若月先生を支える若い医師や看護師など医療従事者たちが持てる力を精いっぱい寄せ合いました。佐久に来る前に若月先生は東大病院の分院にいて工場の「労働災害」問題などを研究し、往時の社会医学研究グループのメンバーが先生を慕って旧臼田町にやって来ます。警察からは「アカ」と見なされ監視されていた若月先生の数カ月後に来たのが外科医の飯島貞二先生です。病院では経営に参画する従業員(労働)組合を組織し、若月先生が初代組合長に選出された後に2代目院長に推薦されると、飯島先生が従業員組合の先頭に立ちました。

医療理解に農村演劇

その後2、3年して外科医の坂本和夫先生や佐々木真爾先生が加わり、さらにその少し前には外科医の船崎善三郎先生が戦地から帰って赴任しています。外科に比べて手薄だった内科を担ったのが三井善之助先生でした。みな有能な人たちで「脊椎カリエス」の「外科手術」や無医村への「出張診療」など医療の現場を分担しながら、病院祭など多彩な文化活動の演劇となれば若月先生はもとより、坂本先生が地域に医療知識を普及する脚本を自ら書いていた時代です。

「農村演劇」が盛んな時代でしたから、従業員組合の演劇部が中心になり、医療を身近なものにする活動の一環として地域に積極的に入り込んでいった草創期のエピソードは尽きません。飯島先生と坂本先生はその後、小諸分院に移り、やがて小諸厚生病院として独立します。

――佐久総合病院のレジェンドたちが綺羅星のごとく登場する時代の中で、夏川さんにとって特に印象に残っている先輩は?

船崎先生と佐々木先生です。船崎先生とは22歳、佐々木先生とは19歳違いで、日ごろはあまり医療現場に顔を出してくれませんでした。だから、若い私たちは忙しかった。そのおかげで勉強にもなりましたが、困った時は呼ぶと親切に教えてくれました。

船崎先生は厚生連系列の全国の従業員組合でトップに立っていました。若月先生はベトナム調査団を2回派遣していますが、その2回とも団長を務めたのが船崎先生です。ベトナム戦争でアメリカ軍が投下した枯葉剤の被害を調査し、世界に訴えています。それくらい「反骨精神」と「平和への思い」を強く持っていた先輩です。

ベトナム枯葉剤被害を実態調査中の船崎善三郎先生ベトナム枯葉剤被害を実態調査中の船崎善三郎先生

医療主体に社会貢献

ご存じの通り、若月先生は「農夫症」の解明など農村医学の先頭を激走していました。その最前線を分担していたのが彼らです。「農薬問題」では後に3代目院長になる松島松翠先生、「農業労働災害」では佐々木先生が中核になって取り組んでいます。「蜂毒」の研究は佐々木先生で、日本で最初にアレルギー予防薬エピネフリンを林野庁に導入する役割を果たしています。いずれも医療を主体に社会に貢献する社会医学の先駆的な取り組みです。

――やはり、戦前の東大分院時代の「つながり」ですか?

松島先生も東大医局からの派遣でした。佐久に来たら音楽にのめり込み、コーラス部を立ち上げて大学には戻りませんでした!(笑)。東大医局が怒って、以来、佐久には「派遣禁止」です。ともあれ「北極星」の若月先生に吸い寄せられた若い医師たちが「衛星」を形成し、八千穂村の健康管理活動など積極的な地域医療・検診予防活動を展開する佐久病院を支えました。病院歌となった「農民とともに」の作詞が若月先生、作曲が松島先生といった具合にですね!(笑)

若月先生が旧制松本高校を出ていたことも幸いしました。同級生たちが地域の医師会長や映画館社長などさまざまな要職に就いていて、人脈を120%利用しています。要するに「人たらし」なんですね!(笑)

【プレミアムトーク・人生一路】佐久総合病院名誉院長 夏川周介氏(中)農村医療と経営は両輪(2)

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