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【童門 冬二(歴史作家)】

2017.08.13 
志実現を中断し、旧主・旧臣の救済に 渋沢 栄一一覧へ

◆幕府消滅で送金停止

 フランスのナポレオン三世は、慶応三(一八六七)年にパリで万国博覧会を開いた。世界各国の元首に招待状を出した。日本にも来た。時の将軍徳川慶喜は、ナポレオン三世と仲よしだったので、弟の昭武(慶喜と同じ旧水戸藩主徳川斉昭の息子)を派遣することにした。使節団を構成し、いろいろな実務をおこなう事務長に渋沢栄一が命ぜられた。栄一はそのころ、慶喜に登用されて幕府役人となり財政を担当していた。慶喜は栄一に、
「弟の昭武はまだ十四歳なので、万国博が済んだあともヨーロッパに留学させたい。その面倒も頼む」
 と告げた。栄一はこのとき二十四歳である。が、博覧会への参加行事はスムーズに進んだが、日本においてとてつもない政情変化が起こった。この年(慶応三年)十月十四日に、慶喜が朝廷に「大政奉還」をおこなったことである。引き続き、十二月九日には「王政復古」の大号令が出て、新政府が樹立された。この時点で、徳川幕府は消滅してしまった。その余波がパリにも届いた。はっきり言えば、昭武をはじめとする使節団に対する送金が絶えてしまったことである。栄一は頭を抱えた。このとき、パリに本店を持つナショナルバンクの頭取フェラーリという人が訪ねてきた。フェラーリは、かねてから栄一を見ていて、主人昭武への奉仕の姿勢や、同僚たちへの面倒見のよさを見て、
「これこそ、日本の武士道なのだ」
 とひどく感心していた。そこでフェラーリは、
「ムッシュ・シブサワ、お困りでしょう」と持ちかけてきた。栄一は正直に、
「本国からの送金が絶えたので、帰国の費用もどうしようかと悩んでいます」と答えた。フェラーリは、
・フランスでは、公共事業に対しても市民が拠金する。その拠金額に応じて、もしも事業で益を生じたときは配当をおこなっている
・それらの金融を扱うのがわたしのナショナルバンクだ
・もしムッシュ・シブサワに残金があればお預けなさい。帰国の費用ぐらいなんとか生んでさしあげる
 と申し出た。栄一は感に入った。それは、フランスにおける合本(資本を集める)主義と銀行の存在だ。日本の金融制度は質屋や大手商人の扱いで制度としては相当に古い。栄一は、
(日本に戻ったら、ぜひこの二つを自分の手で実現しよう)と、大きな志を抱いた。生きてきて初めて「自分のやるべき仕事」が発見できた。
colu1708130101.jpg フェラーリの世話で、日本使節団は無事に帰国した。栄一はまず旧主人の慶喜の行方を探した。そのころ慶喜は、静岡にいた。ある寺に入ってひたすらに新政府(天皇政府)に恭順の意を表していた。そして、驚いたことに静岡の町には、旧幕臣が家族連れで群れていた。中には野宿をしている者もいる。新政府は、徳川家に大名の資格を許し、静岡で七十万石の領地を与えていた。それを知って、旧幕臣が家族連れで一斉に訪れていたのである。しかし、七十万石というのは旧幕府の収入からすれば、五分の一ぐらいになる。全員を再雇用することができない。そのため、旧幕臣たちは困窮のきわみに達していた。
道徳と金融の一致
 栄一が会った慶喜はひげぼうぼうでやつれていた。
「朝敵の汚名が除かれるまでは、ひげもそらない」と慶喜は言った。その姿に栄一は胸をえぐられた。日本に戻ったら、すぐ合本主義(株式)と銀行の設立を自分の手でおこなおうと勢い込んで日本に戻ってきたのだが、そのモラール(士気・やる気)が萎えた。パリでフェラーリが感動したように、栄一にはもともと〝日本人の精神〟が横溢している。かれの場合は、
「困っている者への共感」だ。やつれた慶喜と、町に群がる旧幕臣たちの困窮の姿を見ては、栄一は自分一人だけ東京に行って志を遂げることがどこか躊躇するものがあった。栄一はこのとき、
(志の実現を中止し、慶喜公と失業している旧幕臣たちの救済に力を注ごう)
 と方針を転換した。しかし、このとき栄一が打った手は、必ずしもかれの志と遠いものではなかった。かれは失業幕臣の救済にある組織をつくった。「静岡商法会議所」と名づけた。県内の富豪を説得して歩き、旧幕臣救済のための拠金を求めた。基金をつくると、これに政府が各大名家に新貨幣の普及を求め、石高一石について一円の割合で貸付金を出した。十三年の返済期間だ。利子は安い。渋沢はこれも活用した。かれは、幕臣たちの生業に「茶の生産」を選んだ。それは、横浜に着いたとき対外貿易の日本の目玉品が、生糸とお茶だったからだ。生糸の生産は難しい。しかし茶なら旧幕臣たちにもなんとかやれるだろうと踏んだのである。土地と家屋を用意し、また茶の生産の研修もおこなった。農耕具も買い込んだ。その資金に、静岡商法会議所の名で集めた拠金を充てた。言ってみれば、これはフェラーリから教えられた「合本主義」の日本版で、また商法会議所の仕事はそのまま金融であった。つまり、栄一が東京で実現しようとした志の静岡版だったのである。
 この事業は成功する。政府から借りた金も栄一はたちまち返納した。これに気づいた政府の財政担当者がびっくりした。
「渋沢栄一を新政府に招くべきだ」という声が起こり、渋沢はやがて大蔵省に招かれる。そして租税制度を一挙に変える。年貢という米の現物納入を、不安定な国税制度だとして、土地に課税することに変えた。しかも現物ではなく「金納」に変えた。しかし一連のこの渋沢の事業進展は、あくまでもかれの胸の中にあった、
「弱い者を見捨てない」という日本人特有の温かい精神に基づくものだ。だからこそ、パリのフェラーリが感動し、「フランスにない美しいスピリットだ」と賞賛したのである。
 渋沢は明治六年に日本で初めての銀行を設立する。このとき銀行員に告げたのは、
「論語とソロバンを一致させてほしい」ということだ。つまり「道徳と経営の一致」を願ったのである。そしてかれは弱者救済の二本柱として「老人と子供」の福祉を企てた。東京市立養育院はその所産だ。ここに孤児院も併設した。そしてかれ自身が、東京市長に頼んで初代の養育院長になった。かれはその後数百の会社を起こす。しかし、昭和二年に九十二歳で亡くなるまで、
「東京市立養育院長」
 という肩書は、名刺から消したことがなかった。当初の志を中断し、旧主・旧臣の救済に励もうという決断が、そういう温かい結果をもたらしたのである。

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