【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】芭蕉は近江商人の恩人・塚本定次2018年9月9日
◆勝海舟と近江商人
明治になってから、勝海舟の家にいろいろな人が訪ねて来た。勝は聞いた話を「氷川清話」と題して本にしている。「氷川清話」というのは、本を出した編者の命名であって、勝自身は単なる「座談」という気持ちだったかも知れない。変わり種がいた。塚本定次という近江の商人だ。勝の所に来て相談するのは、
「利益の処分法」だ。地域に対して愛情を持った人物で、塾をつくったり、道路の整備などに利益を回したりしていた。しかし、ある時「地域に住む貧しい人たちの慰めとして何をすればいいか教えていただきたい」と言って来た。勝は、「土地を小作人に分けるよりも、もっと多くの人々が楽しめるために、四季折々の植物を植えたらどうか」といった。塚本は大いに賛成した。目を輝かせ、
「では、桜や楓を植えましょう。働くことに追われて、地域の貧しい人々は桜狩りも紅葉狩りもできません。そうします」といって帰って行った。この塚本がある時、
「俳句の芭蕉先生は、実を云えば近江商人の恩人です」といった。薀蓄(うんちく)のある言葉なので勝は記憶に残したが、なぜ芭蕉が近江商人の恩人なのかわからない。勝も、
「芭蕉は、単なる俳句の達人だけではあるまい。きっと、大きな徳があってそれが後世からも慕われているのだ」と思っていた。
この言葉は長年わたしも引っ掛かっていた。芭蕉はよく旅行をした。"おくのほそ道"はその中でも有名だ。この旅は、西行法師の後を慕って、芭蕉自身が西行の旅を体感するという目的を持っていた。供を一人連れていたが、東北地方を巡って泊めてもらったのはその地域の商人が多い。
だから、わたしは想像をする。たとえば、出羽(山形県)に入って、最上川を使って、酒田港へ土地で出来た産品を運ぶ大石田はそのための有名な集積地だ。だから、舟を持つ商人も群居している。芭蕉はこの大石田にかなり長い間滞在している。もちろん、主目的はそういう商人たちが俳句を作るので、添削をしたりまた句材の発見を手伝ったりする。が、句会が済めば当然食事会を開くだろう。酒も出るに違いない。そんな時に、例えば出羽の商人が、
「ところで芭蕉先生、上方の方で今払底している品物にどんなものがありましょうか?」と、さりげなく訊く者がいる。
◆芭蕉はニーズの伝え手
芭蕉は「そうですな」と言いながらも、思いを巡らして、
「こういう品物が評判がいいようですなあ」と応ずる。聞いた商人は隣席の商人と目を合わせて、頷き合う。今度は芭蕉が逆に訊く。
「こちらではどういう品が払底しておりましょうかな」出羽商人は応える。
「何といっても、土地柄なんですかまず木綿が足りません。それに蝋燭がありません。またお茶も駄目です。みかんもできません。この国の住民は、そういうものを何時も欲しがっておりますよ」。「なるほど」芭蕉は聞いたことを頭に刻み込んで、近江商人のことを思い出す。近江商人は、主務は行商によって成り立たせている。それも、都市整備の整った東海道へ行かずに、谷や山の多い中山道を選ぶ。中山道は、都市整備もまだ十分でなく、そのために谷合や山の中に住んでいる人々は、単にインフラを求めるだけではなく、中央の情報も欲しがる。近江商人たちは、品物と同時に情報も携えて自分の足で歩き回り、商売をする。だから、不便な土地に住む人々は、近江商人の来るのを首を長くして待っている。芭蕉は心の中で、
「そうか。この東北地方では、木綿・お茶・みかん・蝋燭などが不足しているのだな。近江商人に話して、これを届けてもらったら、近江商人もこの土地に住む人々もお互いに幸福になる」と思う。そして、
(上方に戻ったら、このことを、句会を開く近江商人たちに話してあげよう)と考える。塚本定次が、
「芭蕉先生は近江商人の恩人です」と、勝海舟に話したのはこういう事情があったからではなかろうか。つまり、
「欲しくてもその品物が生産できない」という土地に、生産できる土地から商人が届けることによって、需要が満たされる。いってみれば、
「欲しくても自力では得られない品物を、出来る土地から届けてくれる存在」があれば、こんな嬉しいことはない。そうなれば、そのニーズをできる土地にもたらして、行商人が届けてくれるように仕向けてくれた芭蕉は、単に俳句の指導者というだけではなく、
「生活を豊かにしてくれた存在」になる。おそらくそれが、
「芭蕉先生は近江商人の恩人だ」という考えを生ませたのではなかろうか。これは何も大石田の商人たちに限ったことではなかろう。芭蕉は旅の行先々で、句会の後の懇談会でそんな話をしたのだろう。芭蕉がしたというよりも、土地の人々が、
「ニーズ(需要)に関する話題」を提供して、日本のあちこちを歩いている芭蕉から、その答えを引き出したのだと思う。その意味で、芭蕉は単に俳句の指導だけで日本各地を歩いていたわけではない。生活に関わりのある身近な話題にもきちんと対応していたからこそ、旅先の各地で歓迎されたのだ。それが高じて、
「芭蕉は幕府の隠密だ。幕府高官に旅費を支給されて、各藩(大名家)の内情を探って歩いたのに違いない」というような嘘説にまで発展してしまうのだ。余人はいざ知らず、俳聖芭蕉に限ってそんなことをするはずがない。ただ土地の生活者たちにとって、暮らしを豊かにするようなニーズ情報の提供だけはしていたかも知れない。
(挿絵)大和坂 和可
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