戦後稲作技術と水田生態系【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第172回2021年11月18日
1970(昭45)年代初頭、東北の稲作地帯の調査で農家に泊めていただいたときのことである。土間に魚を捕る網がおいてあった。その網を何と呼んだか忘れてしまったが、木の枝で半円形のワクをつくり、それに網を張ったものである。水の中に入って足を使って魚をその網に追い込んで捕ったり、岸辺から覆い被さっている草の間をさぐって捕ったりする。しばらくぶりでこの網を見た。
私の生家にもこの網があり、子どもの頃は小川に入ってこれでドジョウや小鮒を捕って遊んだものである。しかしもう何年も使った事はなかった。農村調査などで農家に行っても見ることがなくなっていた。当然のことである。60年代初頭には田んぼにドジョウや小鮒がいなくなってしまったからである。網は使おうにも使えなくなったのである。タニシ(注1)もいなくなった。イナゴ(注2)もいなくなった。食べなくなってからもう10年以上にもなっていた。
そのかわりに、私の大嫌いなヒルがいなくなった。安心して田んぼに入れるようになった。蚊やブヨもいなくなり、朝晩の田んぼで悩まされたかゆさがなくなった。これはうれしかった。
しかし田んぼにいたさまざまな虫や魚が見られなくなったのはやはり寂しい。文部省小学唱歌『朧月夜』の2番目の歌詞にあった「蛙の鳴く音」も聞こえなくなり、田植えの後の田んぼは静かになったが、あのうねるような蛙の合唱がなつかしく思えたものだった。 夕焼け小焼けの赤とんぼも見られなくなっていた。私たちの愛唱歌だつた童謡「赤とんぼ」、これからの子どもたちに歌われなくなるのだろうか、何かさびしかった。
いうまでもなく、これは農薬散布の結果である。農家はこんなことになるとは知らずに使ってきた。しかもこれだけ強力に小動物を殺すのだから人間の身体にいいわけはない。だから、マスクをしろ、直接さわるな、散布した日は酒を飲むな等々、普及員等から注意される。それを守っても、さまざまな健康問題が引き起こされる。さらには死亡事故にまでいたる。
こうしたなかで農薬の毒性が問題にされるようになり、やがてDDTやBHC、パラチオンなどの農薬、PCPなどの除草剤が販売禁止、使用禁止になった。それでそれにかわるさまざまな新しい農薬、除草剤が60年代に開発され、普及するようになった。さらに1971年には急性毒性の強いものや残留性の高いものは農薬として認められず、製造や販売ができなくなった。
しかしあまりにも強力な農薬使用の影響は大きく、水田の小動物はなかなか復活しなかった。
にもかかわらず、ここの農家に網があったのである。聞いてみると、最近になって田んぼで小魚が捕れるようになったのだという。それを聞いた私は、昼休み、大学院生たちといっしょにその網を借りて田んぼの水路に入り、足で岸辺の草や泥をかきまわして網に魚を追ってみた。何十年ぶりかである。あげてみたらドジョウが何匹か入っていた。それからみんなで夢中になって捕った。かなりの量になった。泊まっている農家の奥さんにお願いしてドジョウ汁にしてもらった。おいしかった。なつかしかった。でもときどき背骨の曲がったドジョウにぶつかった。農薬の影響がまだ残っていたのだろう。
50年代から60年代にかけての稲作生産力はこうした水田生態系の破壊という問題も引き起こしていたのである。
このことについてはまた別途述べることにするが、こうした問題ばかりでなく農基法農政の展開のもとでの稲作生産力の発展は他にもさまざまな問題点をもっていた。
(注)
1.私たちはツブと呼んでいた。春先のツブ捕りは子どもの仕事、それをみそ和えにして食べる、これはうまかった、大好きだった。
2.イナゴ取りは一家の仕事、イナゴの佃煮は重要な動物たんぱく源、しかもうまかった。さらに子どもたちは学校の行事として一日授業を休んでイナゴ捕りをさせられた。捕ったイナゴは売り、そのお金で学校の備品などを買った。授業がないのは楽しみ、だけど一定の量を捕らないとサボって遊んでいたと先生にいやな顔をされるのがいやだった。
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