身に染みついた働き癖【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第281回2024年3月7日
農家は働いた、働いた。男も女も、老いも幼きも、朝暗いうちから夜暗くなるまで(女の場合は目覚めから夜寝る寸前まで)働いた。子どもも年齢に応じて仕事を与えられた。
1960年代ころからの農業の機械化・化学化、家庭生活の電化・化学化、車の普及等々で、生産・生活あらゆる面で省力化され、かつてのように働かなくともよくなった。年寄りはゆっくりすることができるようになった。
しかし、身に付いた習性なのだろう、私の祖父などは働くのをやめなかった。1960年代の後半、当時としては長寿と言われた70歳代半ばを過ぎても、毎日のように田畑に出た。とくに作業がなければ草取りをした。冬は小屋で縄ないをした。そろそろビニール製品が出て縄の需要が減っていたのだが、父は何も言わず祖父のためにわらと縄綯い機を準備してやり、要らない縄まで綯わせていた。祖父の生き甲斐を、自分も働いているのだという誇りを保てるようにしてやっていたのだ。こうして祖父は脳溢血で倒れる寸前まで働いていた。
祖母もそうだった。もうしなくともいいのに、腰が深く曲がっているのに、家事の手伝いをしようとする。危ないからやめろと言われてもやめない。あるときとうとう火事騒ぎを起こしてしまった。その連絡を受けて私は慌てて山形の生家に帰った。祖母は初孫だった私の手を握って泣いた。それまでは一粒の涙も流さず気丈に振る舞っていたのに。
祖母の指は昔と変わらずゴツゴツがさがさしていた、しかし細く小さくなっていた。
そのときから祖母は一切家事に手を出さなくなった。それと同時に、少しずつ少しずつぼけていき、老衰で亡くなった。
やがて都市開発で生家の農地はなくなり、家のまわりもすべて宅地になった。しかし、父は家の前の畑だけはそのまま残した。ほんとにわずかな面積だが、自給用の野菜をつくり、またさまざまな花を栽培して隣近所や通りすがりの人に分けてあげていた。80歳を過ぎて父は脳梗塞から認知症になった。それでも毎日欠かさず畑に出た。そのうち種蒔きも栽培もできなくなってきた。にもかかわらず毎日毎日小さい畑の草取りをした。やがて自分が植えた野菜の芽まで草とまちがって取るようになった。「野菜作りの名人と言われた人がこんなになるなんて」と母は嘆いた。やめるようにと言われても父は畑に出るのをやめなかった。朝から晩まで草を取り続けた。
何を忘れても田畑のことだけは忘れない、そして働く、この身に染みついた悲しい習性、死ぬまでそれは治らなかった。
このように農家のお年寄りは、歳(とし)だから働かなくともよくなっても、ゆっくり休んでいい歳になっても、働いた。
ところがそのうち、休もうにも休むことができず働かなければならないお年寄りが多く見られるようになってきた。サラリーマンなら定年で悠々自適、楽隠居などと言っている歳になっても、働くのをやめるわけにはいかなくなった。高度成長以降、いつまでもいつまでも、身体がいうことをきかなくなるまで、いや死ぬまで働かなければならなくなったのである。
農業の機械化・施設化、化学化が進展し、かつての過重労働から解放されるようになった1970年代、農家の子どもたちはみんな家を、村を出て行くようになった。やがて家を継ぐだろうと思っていた長男まで就職口を探して都会に出て行った。
でも親たちは、自分たちが働けなくなったら帰って来て、家を、農業を継いでくれるものと確信していた。子どもも最初はそう思って村を出て行った。だから親は、家を田畑をきちんと子どもに引き渡せるように、一所懸命管理した。
しかし、なかなか帰って来なかった。どうも子どもたちは帰って来る気はないらしい、それがわかっても、田畑をきちんと管理した。
本来なら孫といっしょににぎやかに暮らしているはずなのに、家は老夫婦二人だけでがらんとして淋しくなった。しかし家はきちんとまもった。帰って来る来ないは別にして、いや帰って来ないとわかっていても、いつ帰って来てもいいように、きちんと管理した。
やはり帰って来なかった。年をとっても子どもたちは帰って来なかった。それでも老夫婦は田畑を維持し、家をまもってがんばった。
高度成長期、男が農外に働きに出て「かあちゃん農業」と言われた時代があったが、やがてそれは「じいちゃんばあちゃん農業」へと変わっていった。老後をゆっくり楽しむなどということはできなくなった。
そこにWTO合意ときたもんだ。
20世紀末はまさに日本農業の、それを支えてきた日本の農家の「世紀末」だった。
ふと頭に浮かんだ、大学を定年になってから私ももう20年近くになった、にも関わらずいまだに本稿を書かせていただいている、これも農民の「身に染みついた働き癖」の遺伝子のせいなのだろうか。パソコンの前で今一人苦笑いをしているところである。
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