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サツマイモ、食糧難、蔓【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第343回2025年6月5日

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ジャガイモはインドネシアを出発したオランダ船が持って来た、と前回述べたが、ご存じのように、そもそもの原産地は中南米である。したがって中南米には原種に近いものなどさまざまな品種があるとのこと、ジャガイモの研究者にとっては魅力のある研究対象地域である。私が一時勤めていた東京農大オホーツクキャンパスの作物・土壌の先生方も何度か現地の調査研究に行っていた。
 彼等に聞くところによると、ジャガイモは寒冷地や痩せた土壌でも栽培しやすいとのことである。またカロリーも高く、ゆでるだけで食べることができる等、非常に便利だとも言う。そんなことから中世に南米に渡ったスペイン人がヨーロッパに持ち帰ったようである。そしてこれはヨーロッパの飢饉を救うのに大きな役割を果たしたと言う。同じことが日本でもあり、江戸時代にコメなどの穀物の代用品として食べて飢饉から救われたとのことである。
でも、私にはジャガイモよりもサツマイモの方が「救荒作物」としての印象が強い。子どものころの教科書(だったと思う)に、江戸時代の中期、青木昆陽がサツマイモの普及に努力して庶民を飢饉から救い、「甘藷先生」と呼ばれたなどというようなことが出ていたからである。
なお、サツマイモは鹿児島=薩摩からもってきたからサツマイモと呼ばれたこと、ところが薩摩は沖縄からそのイモをもってきたので鹿児島では琉球イモと言ったこと、一方沖縄ではそれを中国から持ってきたのでカライモと呼んでいること、そのときに学校で習ったのか、本で読んだのかは覚えていないが、そんなことが強く印象に残っている。

とはいってもそれは学校に入ってからの知識、そもそも私たち子どもにとってサツマイモは、救荒作物=穀物の代用品としてよりは、お菓子だった。
 「九里四里うまい十三里」、江戸時代の焼き芋屋の宣伝文句だそうだが、それはあのころの私たち子どもにはなるほどとすぐに理解できた。たしかにサツマイモは甘くておいしく(クリよりも甘く感じた)、しかもボリュームがあり、甘いものの少ない時代、おやつとして喜んで食べたものだった。
しかし、戦争が激しくなるころから戦後にかけて、サツマイモは主食の一つ、穀物の代用品となった。そのサツマイモはまずかった。

 1941(昭和16)年から始まる太平洋戦争により米麦の生産が停滞し、植民地からの輸入もなくなり、うまいまずいよりもともかく量、まずカロリーの確保が必要だという時代になった。たまたまそれにぴったりのサツマイモの品種が沖縄県で開発されていた。沖縄100号という多収品種である。これを中心にさまざまな多収品種が全国的に栽培されるようになった。
 山形にある私の生家でも食糧増産の掛け声のもとで戦中から戦後にかけてつくらされた。
春先早く、温床(注)の土にそのでかくて太いイモをそのまま埋める。何日かたつとそのイモから芽がたくさん出てくる。十数本出たのではなかったかと思う。それが20センチくらい(だったと思う)の長さになったころ、その下の方をイモから切り離して苗とし、本畑に斜めに植える。やがてその苗の土のなかに入っているところに根が生えてきて、そこにイモがたくさんできる。一方、苗の上部はたくさんの葉をつけた蔓になって伸びる。そして秋になると成長したイモを掘り起こして収穫し、供出する。
そうしたサツマイモが消費者に配給された。しかしまずかった。運送途中だろう、イモが腐ってしまい、そんなものまで配給されたことがあったと私の家内はいう。なお、サツマイモの粉の配給もあり、それをゆべしのようにして食べたそうだが、これはおいしかったらしい。家内の育ったのは消費者家庭、そのため配給があったので、そんなことが強く印象に残っているようである。
こうした問題はあっても、サツマイモは腹の足しにはもちろんなるし、カロリーは高い。戦中戦後の食糧難を乗り切る上でサツマイモは大きな役割をはたした。このように餓えから国民を救ってくれたのだからサツマイモさまさまであるはずである。しかし、私たち以上の世代はサツマイモにあまりいい印象を持っていない。戦中戦後の食糧難を始めとするいやなことを思い出させるからだろう。

 ところで、このサツマイモの蔓(つる)、伸びるは伸びるは、ものすごい成長力で畑をびっしり覆う。この見事な茎と葉、食べられるのではないかと思うほどだ。
実際に戦中戦後はこれを食べた。食えないわけではないからだ。現に家畜は喜んで食べる。しかし私たちにはおいしくない。それでもあの餓えた時代、食べた人もかなりいた。当然その一時期だけ、後は誰も食材としては問題としなくなった。
1980年代の半ば、能登半島の突端の小さな食堂にたまたま入ったら、サツマイモの蔓のお浸しを醤油につけたものを出してくれた。なつかしいと食べたが、うまかった。料理とくに味付けの仕方でおいしく食べられるのではなかろか。でも、サツマイモの大産地の鹿児島や茨城、千葉で蔓の料理は食べたことがない。ちょっと考えてもいいのではなかろうか。
なお、鹿児島ではこのサツマイモの蔓を黒豚の餌としてきた。つまり、蔓やイモの皮をエサとして黒豚に与え、それで育った黒豚の糞尿をサツマイモの肥料として利用するという循環型農業を営んできたのである。それで私たちは、畜産と耕種農業の有機的な結合関係を示す典型的な例としてかつて学生諸君に教えたものだったが、今はどうなっているのだろう。多頭化でサツマイモなど栽培する暇がなくなり、また安い輸入濃厚飼料に依存するようになって、蔓などを利用しなくなったのではなかろうか。またサツマイモ農家は豚飼育をやめ、蔓などは捨てているのではなかろうか。不勉強で申し訳ないが、その点について調べたことはない。
ただ、「かごしま黒豚」と名乗れるのは肥育後期に飼料含量あたり二〇%のサツマイモを与えることが条件となっているということなので、ともかく畜産とサツマイモが結びついている。これはうれしい。これに学んで、東北では飼料米と畜産、北海道では飼料ジャガイモと畜産を結び付けて畜産物のブランド化を図っていくことなど考えていいのではなかろうか。

さて、また戦後の話に戻るが、食糧難が徐々に解決されるなかで、サツマイモは主食ではなくなってきた。そしてサツマイモは再び甘くなり、焼き芋やふかし芋、大学芋、干し芋などのおやつとして、またてんぷら等の料理の素材として食されるようになってきた。
戦後いつのころからだったろうか、冬の夜になると、リヤカーにイモを焼く窯をのせ、ポーという独特の笛の音を遠くまで鳴り響かせながら歩く焼き芋屋が町を流して歩くようになった。石焼き芋といえば冬、焼き芋屋さんは夏どうやって暮らしているのだろうか、夏場の食べ物アイスキャンデーでも売って歩いているのだろうかなどと考えていたのだが、あれが新潟などの農家の出稼ぎだということを知ったのはかなり後だった。仙台の石焼き芋屋さんはどうなのかわからないが。

 このように、焼き芋や料理用としての需要が復活しても、主食としての需要が減ったのだから、サツマイモの生産は激減していいはずである。実際に生家でも五〇年代後半にはサツマイモの生産はやめている。
 しかし、サツマイモは澱粉=甘味材料として重視された。戦後はまだ砂糖など不足していたからである。だから価格保証もされ、その生産量は大きく減ることはなかった。
ところが、貿易自由化が本格化した1960年代、コーンスターチ(トウモロコシの澱粉)がアメリカから安く大量に輸入されてくるなかで、澱粉原料としてのサツマイモの生産は不可能となり、サツマイモの生産は激減した。
ただし、鹿児島では澱粉原料としてのサツマイモ生産は一部生き延びた。いも焼酎の原料としてであるが、さすがサツマイモの産地、ぜひがんばってもらいたいものである。

(注) 早春のまだ寒い時期に野菜などの幼苗を育てて寒さの害を防ぎ、生育を速めるために、人為的に地温、気温を高める仕組みを備えた苗床(=苗を育てる場所)のこと。電熱や石油熱などを利用する以前の時代に普及した。

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