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JAの活動:インタビューで綴る全農50年

【インタビューで綴る全農50年】第6回 三尾忠 元JA全農常任監事 職歴波乱も農業に傾注 教育でも教師冥利2022年2月7日

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全販連に入り、全農で自主米を担当。労働組合の専従を務め、中央協同組合学園に出向し、最後は全農の常任監事と「想定外」(本人の弁)の職歴を持つ三尾忠氏。退職後、常務として東京農業大学の運営に手腕を発揮した。いま、それを振り返る。(聞き手は農協協会理事・坂田正通氏)

元JA全農常任監事三尾忠氏元JA全農常任監事三尾忠氏

――全販連に就職するまでの経歴から聞かせてください。

わたしは戦前の朝鮮全羅南道に生まれ、終戦で父の故郷の鹿児島県佐志村(現さつま町)に引揚げました。昭和23(1948)年新しい農協が発足、父は常務理事に就任しました。佐志村は県下では数少ない米単作地帯でしたが、父は農家の現金収入を図るため畜産の導入を考え、まず自分で体験して組合員に勧めるべく毛皮用のウサギや鶏、豚、乳牛の飼育を始めました。家畜の世話は子どもたちの役割となり中学生になってからは乳搾りをさせられ、毎日の餌やり、ふん尿処理等で友達と遊ぶ暇はありませんでした。

養鶏、養豚、酪農は村内に定着して、これらの取り組みが県に認められ、「みんなの力で」と映画になりました。

高校を卒業して広島大学政経学部二部に進学しました。兄が東京の私立大学に入っており経済的に厳しかったので、国立大学で唯一働きながら学べる二部のあった広島大学を選びました。

当時、広島には砂谷村(現在、広島市湯来町)の酪農組合が市民に直接市乳を供給するミルクプラント工場を設置していました。いわゆる農業の3次化を先取りする取り組みでした。縁があってここで世話になり働きながら大学に通いました。一年後にやはり大学二部の後輩が入って来て意気投合、夜な夜な議論する中で将来取り組むべきは農業と結論しました。2年で中退し東京農業大学に入り直しました。合併数年後にこの後輩が全購連に入会していたことが判明、再会を喜び合ったものです。

――そして全販連に入られました。その頃はどんな仕事を。

農業にとって重要なのは販売事業と考え全販連に入りました。最初は受渡部、3年目に新設の養鶏部配属になりました。仕事は外国鶏ひよこの販売です。福島、宮城県を担当し農協・農家巡りです。鶏の鳴き声、鶏ふんのにおいを求めて歩き回りました。大変な仕事でしたが楽しかったですね。当時、島根県大東町で50羽養鶏が話題になっていたころです。

その後、籍を置いたまま43年から開場予定の東京集配センターの市場調査と開拓に携わりました。現在のスーパーマーケットはまだ出現しておらず学校給食や自衛隊、企業の給食等がターゲットでした。

――自主流通米制度が導入された時は、どのような状態でした

自主流通米制度は戦後初めての民間取引で、売り手、買い手とも誰も経験がなく価格形成、デリバリー、代金決済等すべて手探りで始まりました。値決めは買い手の全糧連、全米商連との交渉でしたがお互い譲らず「百日交渉」も厭(いと)わずといった厳しいものでした。

産地もわが県のコメをと競争意識丸出しでその調整も大変な作業でした。価格も産地銘柄、等級、包装容器、輸送手段で異なるため事務も煩雑で、経済連の体制も未熟のため、残業は連日、月200時間を超えることも再々でした。

――米部門が長かったようですが印象に残っていることは。

昭和50年代前半までは食管制度堅持です。強制供出から始まりましたが戦後は不十分ながらも「生産費所得方式」に基づく価格と、無制限買い入れは農家にとって最強の商品となりました。

自主流通米は主食用米の大層を占め農家の所得増に寄与してきましたが、一方でコメ消費の減退が進みコメ消費拡大が課題になりました。日本酒造組合の協力も得てコメ100%の純米酒製造・普及を図りうまい酒造りが定着しました。多用途利用米制度は家畜のえさ用に回すため、政府買い入れ価格より安い価格になりましたが、需要拡大を図るための苦渋の決断でした。

平成5(1993)年には公正取引委員会が自主流通米の価格形成について、95%の圧倒的なシェアを握る全農の価格設定は優越的な地位の乱用ではないかとの視点で、2カ月にわたって調査に引きずり回されました。価格交渉は自主流通米制度という法律に基づく商取引である旨説得し無事解放されました。

――中央協同組合学園にも出向されましたね。

48年札幌支所の自主流通課長を2年経過した3月、突如として学園出向を命じられました。就職以来全く想定しない職場です。1学年50人3学年150人の全寮制です。

農産物流通論とゼミを担当しました。"へぼ教師"でしたが週末にはゼミの学生が大勢で押しかけてきて、その食事作りに家内がかなり苦労していました。

おかげで卒業生の結婚式への招待や、幾人かの学生が農協や県連の役員へ選任されるなど教師冥利(みょうり)を実感しました。

――農業倉庫基金ではどのような仕事を。

農業倉庫やカントリーエレベーター(カントリー)の火災や水害の補償業務がメインですが、火災事故は減ったもののカントリーの品質事故が多発していました。カントリー事故はサイロ一本2、3億円の被害となります。事故原因は過剰受け入れによる乾燥不良で米が発酵するというもので共通していました。予防対策を徹底させるため4人の技術者を採用し、全国を4区分しカントリー全てを巡回指導させました。現場の技術担当者とあわせて初めての試みでしたが農協の経営層の研修会を開催してカントリー運営の理解と関心を高めることにしました。この研修制度が、後日の国の財団法人見直しのときに役に立ち、一般社団法人への転換を免れることができました。

――母校の東京農大の常務として教育分野でも活躍されました。

平成15(2003)年縁あって常務理事に就任しました。大学の運営には全くの素人でしたから、まずは現場を知ることだとほとんどの職場に足を運び業務内容の把握に努めました。職員からは常務がわが職場に来るのは初めてと珍しがられましたが、「大学の常識は世間の非常識」。大いに改革してくださいと激励も受けました。

入試手当の改変、降格規程の制定を手始めに、大学教員は採用後の首切りは難しいので任期制を導入しました。給与は評価制に切り替え、大学教員は階層別の給与体系を導入しましたが30年ぶりの改定とのことでした。また労働協約も、理事退任者が組合員になるなど問題が多くあり改訂しましたがこれは50年ぶりでした。4年間の大半は教職員組合との団体交渉で明け暮れました。

【インタビューを終えて】
三尾さんは全農の常任監事のあと、母校の東京農業大学の常務理事を務めた。象牙の塔に入って、学校運営を任された。大学教授の任期制など数々の改革を行い、今日の東農大の発展を招いている。三尾常務の時代に東農大中等部を作った、高校に優秀な人材を中等部からおくる。東京・世田谷にある東農大第一高校は現在偏差値67と高校入試も難関だが、卒業後の進路も国立大学はじめ慶応・早稲田・上智など有名私立大学への進学校と言われるようになった。

最近、膀胱がんを患ったというが、80歳を超えて相変わらずお酒は強い。インタビュー後のお昼ご飯に冷酒をグラスで注文。グイっとやる。弁舌さわやか。50年前全販連養鶏部で宮城県・福島県などの農協・農家巡り、車座になりお酒で議論し弁を鍛えた。仕事の中身は厳しかったが懐かしいなあと述懐する。(坂田正通)

本シリーズの一覧は以下のリンクからご覧いただけます。

【インタビューで綴る全農50年】

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