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自然エネルギーを活用した「温床」【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第124回2020年11月12日

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「犯罪の温床」「非行の温床」、この言葉は若い方もご存じだろう。そうである、『温床』とは「ある結果を生み出し育てる母胎となるもの」(『日本国語大辞典』)という意味で。おもに悪い場合に使われる。
しかし、そもそも温床とは「苗を早く育てるために床土をあたたかくした苗床」を意味する言葉で、それが比喩的に用いられてさきほどのように使われるようになったものであり、農業用語なのである。

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もう少し詳しく言えば、温床とは人為的に地温、気温を高める仕組みを備えた苗床(=苗を育てる場所)のことである。この温床で、早春のまだ寒い時期に野菜などの幼苗を育てて寒さの害を防ぎ、生育を速めるのである。そして、大きくなった苗(成苗)を外気温が高くなった頃に露地の本畑に移植する。こうして、直接本畑に播種した場合よりも安定多収を図り、さらに早期に収穫できるようにする。こういうものなのだが、前回のべたようにその温床の発熱源として都市ゴミを利用していたところもあった。それを1950年代の山形市周辺の農家でなされていた事例で紹介してみよう(記憶でしかないのであまり正確ではないし、ここでは図示できないのでわかりにくいだろうが)。

春、雪解け後すぐに屋敷畑の土を、南・北側二間=3.6メートル(三間の場合もある)×東・西側四尺=1.2メートルの長方形に20センチほど掘る。掘り終わったらその内まわり四方にに木の枠を敷設して四方を囲う。枠の高さは北側が高くて約50センチ、南側は約30センチと低くなっている。したがって東側と西側の枠は斜めになっている。日当たりがいいようにするためである。こうして枠の囲いができたら、その底の土の上にまず稲わらを敷く。その上に都市ゴミを入れる。毎年春になると毎日、市役所のゴミ収集車(といっても大八車だが)が町で集めたゴミを畑まで運んでくるので、それを入れるのである。それを踏みつぶしてならし(その後にダラ=下肥や米糠を散布したような気がする)、その上にまたわらを敷き、さらにその上に籾殻を敷き、15センチくらいの大きさで土をかぶせる。このように、わら+都市ゴミ+わら+籾殻+土で苗床をつくり、この上に、つまり木枠の上に油紙を張った障子を四枚かけて覆う。これで温床のできあがりである(この温床の大きさや数は農家により若干異なる)。そこで播種などの管理作業は障子を開けてその温床の外の両脇から手を伸ばして行う。

この温床の暖房は、石油や電気ではなく、稻わらと都市ゴミ、屎尿が微生物により分解される過程で出す熱である。それらは養分としてではなく、発熱材料用、暖房用として、その発酵熱をエネルギー源として利用されたのである。

そしてこれでかなり地温が上がる。その熱は上にかぶせた障子で逃がさないようにする。その障子には雨水を通さない油紙(後にはビニールが使われたが)を貼ってあるので、春先の冷たい空気や雨、霜にさらされることもなく、太陽熱を利用することが可能である。これでさらに温床内の地温、気温が上昇する。晴れた日などは熱すぎて障子をはがして温度を下げることもある。といっても、夜はやはり冷えてくる。そこで、夕方近くになるとその障子の上にわらでつくった菰(こも)をかけて夜から朝にかけての低温と霜を防ぐ。朝になるとその菰を外す。こうして保護するから本畑に直播するよりかなり早く播種できるし、成長も早い。こうして一定の大きさまで育てた苗を本畑に移植する。そのころはもう暖かくなっているから、成苗は寒さの害を受けることなく、強くなった太陽エネルギーを徹底して利用して早く成長できる。

こうして移植してしまうと温床は不要となる。そこでそれを解体し、普通畑に戻す。そのとき、温床の下で腐熟している都市ゴミやわらは良質の完熟堆肥となっているので、それは掘り起こされて別の畑に投与される。都市に持ち出された農業起源のものが土に返されるのである。なお、木の枠や障子などは来年も利用するために取っておく。

私の生家では、この温床でキュウリ、トマト、ナス、トウガラシなどの野菜の苗を育てた。子どもだった私は、温床を掘るのはもちろん、温床に使う障子の桟(さん)に糊をつけて紙を貼り、その紙に暖めた菜種油を塗って油障子(油をひいた紙を貼ってある障子のこと)を完成させるなどの手伝いをした。また、夕方障子の上に寒さ対策の菰をかぶせ、朝それを外すのは、子どもの仕事だった。

こうして育てた苗の大半は本畑に定植されるが、一部は近在の農家や八百屋、種屋などに苗として売られた。とくに植木や苗木の販売で有名な五月初旬の薬師神社のお祭りのときには、そこに出店する人が大量に買いにきた。また、近在の農家のなかにはこれだけの本数を売ってくれと温床をつくる前から予約注文して買いに来る人もいた。

本畑に定植されたものは当然のことながら露地植えよりは成長が早く、収穫も早い。早い時期の生産物は初物として高く売れる。また、きめ細かい管理のもとで育てられたために苗は健康だし、一定の大きさに達している苗なので遅い時期に直接畑に種を播いて育てた小さい苗よりも太陽エネルギーをより多く活用でき、早く大きく育つ。だから収穫量も多い。こうしてできた生産物が山形市内だけでなく東京や仙台に貨物列車で出荷された。

こうした夏野菜ばかりでなく、ハクサイ、ダイコン等の秋野菜も戦後復興途上に沸く東京に送られた。農地改革で自由に作付けできるようになり、収穫したものはすべて自分のものになった小作農はもちろんのこと、地域内の農家はみんな一致して米の増産とともに野菜の生産拡大に取り組んだものだった。あのころの農家が一番輝いていたのではないかなどと考えてしまうのだが、まあそれはそれとして、その野菜栽培を支えたのが山村であり、林業だった。

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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