農政:ウクライナ危機 食料安全保障とこの国のかたち
<食と農の国難に問われる救国のショックドクトリン> 国際ジャーナリスト・堤未果氏【ウクライナ危機】2022年4月7日
ロシアのウクライナへの侵攻は1か月以上に及び、無差別攻撃による被害が広がり、ロシア軍が撤退したあとの町で多くの市民が殺害されているのが路上などで見つかる深刻な事態も生じている。さらにロシアへの制裁の動きが強まる中、小麦などの先物取引価格が跳ね上がっているのをはじめ、さまざまな資源が高騰している。こうした状況で日本が改めて問われていることは何か。国際ジャーナリストの堤未果氏に寄稿してもらった。
「真の敵見誤れば手遅れに」
国際ジャーナリスト 堤未果氏
かつてイラク戦争取材の際に、一人の米兵が私に言った。
〈戦場で最も危険なことは、木を見て森を見ないこと。真の敵を見誤れば、足元が崩れても気づかず手遅れになる〉
あの頃のマスコミ報道も、善悪二元論一色だった。悪魔化された為政者を潰す正義を理由に、数え切れない程の爆弾がイラクに降り注ぎ、多くの犠牲を出した事を覚えているだろうか。コソボやアフガニスタン、リビアやシリアでも繰り返されてきたパターンだ。武力による侵攻は、決して許されるものではない。他方、共通の敵の存在は、私達を感情的に団結させる一方で、深い思考と広い視野を妨げ、その本質を見落とさせてしまう。
例えば今回のウクライナ問題では、制裁という手段によって、日本を含む西側諸国が支払わされる代償の大きさだろう。
グローバル世界における資源大国への制裁は、非資源大国側の犠牲を意味するからだ。
マスコミ報道とは裏腹に、この制裁はロシアを弱体化させるどころか、ブーメランのように制裁する西側の国々を直撃している。
プーチン大統領は、制裁に参加した「非友好国リスト」(40カ国)を作成し、穀物や肥料、エネルギーの輸出停止を開始した。
同じく穀物輸出大国のウクライナ、ベラルーシ、ハンガリーも後に続き、小麦に石炭、キャノーラの先物価格が高騰、リチウム、パラジウムの国際価格も最高記録を更新し、エネルギー、金属、食糧価格が急騰中だ。
食糧インフレで各国で始まる〈食と農、エネルギー政策の大転換〉
すでに20%に達した食糧インフレ率が今夏50%を超えるリスクが囁かれる中、多くの国が〈食と農、エネルギー政策の大転換〉をせざるを得ない事態に直面している。
スーパーの棚から食用油や小麦製品が消え、国民の間にパニックが広がったEUでは、農水大臣達が緊急会議を招集し、「欧州食糧安全保障危機対応メカニズム(EFSCM)を発動、農家への直接支払い増額や、休耕地での穀物作付けに加え、消費者保護の食品付加価値税引き下げ政策を決定した。
この状況をすぐに〈国家存亡レベルの危機〉に位置づけたのは、人口増に伴う畜産拡大を穀物輸入で支えていたエジプトだ。政府はかつて小麦価格の高騰がきっかけで拡がった「アラブの春」の危険性を忘れていない。同じようにウクライナ産小麦に依存する、インドネシアやバングラディシュ、パキスタン、レバノン、イエメン、フィリピンでは、近々食料をめぐる暴動が警戒されている。
日本と同じ輸入依存の農業政策を続けてきたブラジルは政府が「自国ファースト」の方針を取りロシア制裁に不参加を表明、8割以上輸入に頼る肥料の国産化を目指す「国家肥料計画」を打ち出した。
各国の国民・農業団体も黙っていない。フランスでは燃料価格の高騰に抗議する輸送労働者が道路を封鎖し、マクロン大統領が、食糧切符導入の検討を開始した。インフレ率が過去40年最大に跳ね上がったスペインでは、農業労組が主催したデモに、農業・狩猟関係者15万人以上が参加、首相に対し、燃料・肥料の価格高騰から生産者と第一次産業を守る「緊急措置」を要求している。 ポルトガルでは農業連盟が食糧配給制度の検討を訴え、動物飼料協会が、国内市場から豚肉が消滅するという警鐘を鳴らし始めた。食料価格が最大50%上昇したドイツ農業協会の会長は1年後の食料供給に強い懸念を示し、ペルーでは稲作農家15万人が肥料高騰で次々に廃業に追い込まれ、政情不安を悪化させている。
多くの政府が再来を恐れる悪夢
アジアでも、ウクライナ危機における政治の最優先案件は〈食料・エネルギー危機〉だ。肥料高騰で主食の米が打撃を受けるタイでは、農業協会会長が「米農家保護の為の緊急介入」を要請し、日本同様食料自給率の低い韓国では、30万トンのウクライナ製穀物が黒海で足止めされ、飼料メーカーが悲鳴をあげている。2008年の世界食糧価格高騰の際、アジアや南米、中東で起きた暴動も又、多くの政府が再来を恐れる悪夢の一つなのだ。
そのリスクを常に警戒してきた中国は、〈食糧安全保障政策〉を強化し続けてきた。パンデミックに続き、ウクライナ問題が〈輸入依存農業の脆弱さ〉を世界に見せつける中、中国では穀物輸入増量のみならず、国内主要農産物を大規模増産すべく森林伐採令が出され、農家への補助金は前年比3割に引き上げられた。
中国は又、ウクライナ危機のもう一つの顔である〈金融戦争〉でも漁夫の利を得る勝ち組だ。国際決済システム(SWIFT)から排除されたロシア同様、待ってましたとばかりに脱ドル決済システムへの移行を加速させている。拙著「デジタル・ファシズム」で記したように、以前から中国が進めてきた人民元決済システム〈CIPS〉には、今後ますます米国支配脱却を望む国々が集まってくるだろう。都市住民が週末を過ごす菜園付き別荘「ダーチャ」を初め、ロシア政府が種子から全工程を通した〈食糧自給力強化〉を進めてきたのは、今後世界が、資源に裏打ちされた通貨と弱体化するドルシステムに二分されてゆく事を、知っていたからだ。
国難を脱する唯一の鍵を何人が理解しているか
ロシア制裁の旗振り役であるバイデン大統領は、ブリュッセルの会見でこう言った。
「食糧危機は本当にやってくる。ロシア制裁のコストは、経済制裁をした米欧日等にも課せられるだろう」
足元で自国民がガソリンや食糧の価格高騰に苦しむ中、米国の軍需産業は、大統領が煽るこの戦争で、空前の利益を上げている。
そんな米国と足並み揃えた〈制裁強化〉の声が響く永田町で、〈食とエネルギーの自給力〉こそが、この国難を脱する唯一の鍵である事を、一体何人が理解しているだろう? 突然輸入を止められても揺るがない<経済安全保障>とは何か。ウクライナ危機が合わせ鏡のように映し出す、危機に晒される我が国と私たち自身の、崩れゆく足元が見えているだろうか。
敵がいるのは必ずしも、戦場だけとは限らない。コロナとウクライナ危機のダブルショックが襲う中、次々に力尽きる日本の米農家や養豚場、酪農家や漁協らの頭上を、海外のハゲタカ達が舞っている。持続可能な未来へ繋がる貴重な農地や海や森を全力で守り、心ある農水官僚と協同組合、消費者・生産者の掛け橋となる真の政治家を、一人でも多く国政と地方で増やす事が私達国民にとって急務だろう。
失望するのはまだ早い。今だけカネだけ自分だけの強欲な面々が、惨事の裏でこっそり国民の資産を私物化し奪う〈ショックドクトリン〉の手法は、彼らだけの専売特許ではないからだ。危機はその規模が大きい程に、社会を大きく変える梃子になる。今こそ私達の手でこの国難を、〈食と農〉を巡る社会のあり方を、根本から転換する覚醒のチャンスに変えるのだ。戦後日本でも続いてきた輸入信仰が崩れた今、世界ではかつてない程多くの人が、食とは何かを自らに問い、いのちを育む生産者の貴さに目を向け、今や潮流となったアグロエコロジーや、無償給食と連動させた地域経済の価値を見直している。バイオ技術やAI中心の〈みどりの食糧システム〉に欠ける最後のピースがあるとすれば、日本人が持ち続けてきた、食と農と命を尊ぶ慎ましい精神に他ならない。〈救国のショックドクトリン〉が、今私達一人一人に問われている。
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