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【森島 賢・正義派の農政論】■ 梶井さんを偲ぶ ■2019年7月8日

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【森島 賢】

 梶井 功さんが逝去した。もういない。昨年の夏以来、ご不快のようだったが、それにしても、あまりに突然だった。
 農業経済の研究は、その主柱を失い、羅針盤を失ったのである。
 梶井さんは、農業経済学の最高峰に位置する学者だった。そして、生涯を現役で通した。資料を綿密に検討した上で、農業経済の大局を論ずる、という学者だった。
 それは、学者として当然だ、というかもしれない。しかし、不十分な検討の上で大局を論ずる人や、綿密な検討の上で小局を論ずる人が多い。そのなかで、徹底した綿密さという点と、大局の核心を深部から的確に論ずるという点で、梶井さんに比肩できる人が、いまはいない。今後100年経っても出てこないのではないか。
 私がそうした人に学生の頃から、お近づきできたことは、かけがえのない幸せだった。

 梶井さんと私との年齢差は7年だった。これも幸運だった。私にとって、梶井さんは、ちょうど長兄のような人だった。私は末弟のような居心地のいい立場にあった。長兄だから、次兄や三兄には厳しかったようだが、末弟だから叱責された記憶はない。褒められた記憶だけがある。
 私の無二の畏友だった北大の故太田原高昭君などは、若いころ、学会報告を梶井さんに褒められた、といって舞い上がらんばかりに、はしゃいでいた。
 梶井さんは、若い研究者にとって、目標にすべき、そして、やがて論破したい、そういう学者だった。

 

 

 梶井さんに初めて出会ったのは、梶井さんが助手だった頃である。当時、若者頭のようにして、若い学生たちを取り仕切っていた。
 梶井さんは、そのころ30歳くらいだったが、農業経済について何でも知っているように見えた。われわれとの年齢差は7年だから、われわれも7年経てば梶井さんのようになれるのだろうか、と考え込み、絶望的な気分になっていた。
 あのころは、人生に終わりがある、などとは考えてもいなかった。だから、30歳までは農経教室に居座って無駄飯を食い、30歳になったら研究者をあきらめ、適職を見つけようと考えて、遊び呆けていた。
 しかし不思議なもので、梶井さんの言う事を聞いたふりをして、嫌々ながら論文を書きだすと、農経が分かるような気分になってきた。

 

 

 当時、東大農経教室には教室研究会というものがあった。ほとんど毎日だった。研究会などと名前は仰々しいが、内実は昼食会だった。教授たちは持参した弁当を食べていた。朝食が遅い大学院生たちは、お茶を飲んでいた。もちろん院生も自由に発言し、そして鍛えられた。
 ここには抽象的な空論はなかった。空論をしようとすると、若者頭の梶井さんから「調査なくして発言権なし」と、たしなめられた。
 調査といっても、何々村の何々さんが何円儲けた、というだけの報告は軽蔑された。それが農業経済にとって何を意味するか、日本経済にとってどうか、さらに日本の社会や政治や文化にとって何を意味するかが厳しく問われた。報告者の鋭い洞察力と、強靭な社会観が要求されたのである。
 それを梶井さんが主導した。

 

 

 ここでは、出席した誰もが平等だった。近藤康男さんは、院生に向かって、君たちは研究上は対等の競争相手だ、といっていた。
 院生は教授などの年長者に対しても、○○先生などとはいわなかった、○○さんといっていた。それは、上下関係のない平等の表現だった。
 教室研究会だけでなく、日常的にそういっていた。たまに○○先生などという人がいると、何かの不純な魂胆があるのだろう、と怪しまれた。内山政照さんは、私が先生づけでいうのは神谷慶治先生だけだ、といっていた。お二人とも故人になってしまった。
 教授たちは、学生に対して△△君と敬称をつけていた。北大風にいえば、紳士として相対していた。

 

 

 東大農経は、官制上は講座制だった。しかし、事実上、講座制はなかった。講座の間に壁は全くなく、自由に交流していた。
 私は神谷講座に所属していたが、近藤講座の農村調査に参加したこともあった。梶井さんが取り仕切る牧野の調査だった。こうした機会でも梶井さんに鍛えられた。
 こうしたことは、講座制が厳格なところでは、考えられないことだろう。そんなことをしたら、ただちに破門される。
 このような自由と平等の雰囲気のなかで、学生時代を送れたことは、私にとって、まことに幸運だった。そして、その中心部に梶井さんがいた。
 その梶井さんは、もういない。この喪失感が癒される時は、いつかは来るのだろうか。いまは、謹んでご冥福をお祈り申し上げるしかない。
(2019.07.08)

(前回 G20は お祭りだ

(前々回 立憲の農業軽視

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