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続・戦前戦後の髪型と床屋・パーマ屋さん【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第361回2025年10月23日

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 1955(昭30)年以前、男の子はまだ戦時中を引き継いでみんな陸軍軍人並みの坊主頭だった。新制高校生(旧制中学生)もそうだったが、徐々に髪の毛を伸ばすものが出てきた。また学校で髪型を規制するところも減ってきた、私の高校は自由だたが、まだ多くは坊主頭、私は高校を卒業するまで父のバリカンで頭を刈ってもらったものだった。

 60年代(高度経済成長期)に入ると、高齢者を除いてほとんど男は長髪となり、子どもはみんないわゆる「坊ちゃん刈り」になった。だからみんな床屋さん(理髪店と名乗るようにはなっていたが、みんなまだそう呼んでいた)に行くようになり、父のバリカンは祖父と父自身のとき(母がやっていた)しか出番はなくなった。
 やがて、農家の男性も都会と同じようにほとんど長髪となり、女性は美容院に行くようになった。頭髪のファッションは都市も農村も変わりなくなってきた。
 ところが私の父は、床屋には行くようになったが、一生坊主頭で通した。どうしてなのかわからない。私も聞き漏らしてしまった。父は坊主頭なのが当たり前、汗をかきやすい農作業にはそれが最もいい、手ぬぐいで簡単にふける、涼しい(真夏は麦わら帽子)と思って過ごしてきたからなのかもしれない。

私は1954(昭29)年、大学に入ると同時に髪を伸ばし始め、一定の長さになった頃、子どもの頃通っていた床屋さんに行って整髪してもらい、生まれて初めてポマードで当時流行っていたリーゼントスタイル(そうである、横浜ベイスターズの元投手・監督の三浦大介選手の髪型である)に形を整えてもらった。当時はそれが普通だったからである。
 しかし私はあのポマードのべたつきと臭いがきらい、そこでポマードなしですむように長髪にすることにした。そしてそれは今も続いている(若い頃ほどではないが)、幸か不幸か髪の毛はそれほど薄くならず、したがって今は白髪を振り乱している)。
私の今住むホームに週1回美容師さんが来てくれ、男女の整髪をしてくれるのだが、私はまだ二度しか行っていない。もうそろそろなのだが今度は街の床屋さんに行ってみようかと思っている。

いつのころからだったろうか、街から床屋という看板が消え、理容所とか理髪店とかいう名前に変わってきた。私はいまだに床屋さんと呼んでいるのだが、これは失礼に当たるのだろうか。
「床屋さん」、幼い頃からこれまで、いろいろな思い出が詰まっており、私は何か温かい気持ちになるのだが。

 1960年代、女の子はおかっぱ頭、そして男の子と同じく床屋さんで整髪してもらっていたが、少し大きくなると三つ編み パーマが禁止されていた高校を卒業するとパーマ屋さん(後に美容院と呼ばれるのだが、日本髪を結う「髪結いさん」が兼ねるようになりつつあり、さらにパーマ屋としてそれを専門にするようになった)に行ってパーマネントウェーヴをかけてもらう、これが大人に、女として一人前になったことを示すものだった。

このパーマの普及に拍車をかけたのが、そして多様な形態のパーマを生み出す契機となったのが1954年公開のオードリー・ヘップバーン主演映画「ローマの休日」(注1)だった。ここで紹介されたショートカット(通称ヘップバーンカット)はまさに一世を風靡した。高校卒業して2年目、東北大付属高等看護学校2年生だった家内もその髪型を早速真似したようである(私は後に当時の写真を見てそれを発見したのだが)。

私にとってもう一つ、パーマで忘れられない映像は、2000年に放送された木村拓哉・常盤貴子主演のTVドラマ「Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜」(注2)である。その最終回の画面、高校を卒業して初めてパーマ屋さんを訪れてパーマを掛ける日を、淡々と、美しく、温かく、愛おしく描いてくれた.、この再放送があればもう一度見たいと思っている。

ところが家内は、最初にパーマ屋さんに行ったのがいつか、覚えていないと言う。高校を卒業すると故郷を離れ、三年制・全寮制・学費食費無料の東北大医学部付属高等看護学校に入学したのだが、いつの間にかみんなといっしょにパーマをかけるようになったと言う。ただしパーマ屋さんでヘップバーンカットをしてもらったことは記憶にあると言う。私はその写真を後になって見たのだが、家内には似合わないような気がする、でもそれは言わないことにしている。

それはそれとして、高度経済成長期以降現在まで、街角で見かける髪型、髪の色を見るとよくわからなくなる、そして緑なす黒髪、これをなぜ金色や茶色に染めるのだろうかと疑問になってしまったものだった。

 それからずっと後になるが、街を歩く若い女性のなかに頭髪の色が違う人を見かけるようになったことだ。外国人ではなく、日本人だと見ただけでわかる女性がである。これがよくわからない。ともかく今も、街の中をさまざまな髪型をした男女が歩いている。これも表現の自由、何もいうことはないのだが、男だか女だかわからない髪型でちょっとまごつくことがあるのが不便だ。
 さらに最近では、赤、茶、金、紫等々、さまざまな色の髪の毛をした男女を見かけるようになった。親からもらった髪の色をなぜ染めなければならないのか、しかもあんな色にしなければならないのかがよくわからない。年寄りになって白髪を振り乱すのは他人に不愉快な思いをさせるかもしれない、何か特別な事情がある、だから髪の毛を染める、それならそれでわかるのだが、それにしてもなぜあんな色なのか。
 「緑なす黒髪」は新緑、若葉などが若々しく芽吹く様子を示したもの、「髪は烏の濡れ羽色」、これが日本女性の、若い女性の誇りだったはずなのだが(男も男だ、髪の毛を染めるものもいる)。
 しかし、日本女性の中にもさまざまな髪の色、癖毛の人もいる、この言葉はそうした人をおとしめることにならないか、こんなことを言うのは時代遅れ、「昔は昔、今は今」、表現の自由だ、そう思って何も言わないことにしてはいるが、男子学生が髪の毛を金色に染めてきたときなどはついつい皮肉を言ってしまう、
 「身体髪膚 これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と。
 こんなことを言うのも年寄りの悪い癖、困ったものだ。
どういう衣装を着ようとも髪型にしようとも、他人に迷惑さえかけなければいいこと、それでいいではないか、表現の自由を謳歌しよう、もちろん他人に迷惑をかけない範囲内でだが。

2005年、東京農大オホーツクキャンパスにいたころの話である、ある日私の教え子の大学院生の0A君が丸坊主となッた、どうしたのかと聞いたら、床屋が間違って変な髪型にした、頭にきてくりくりの坊主頭にしたという。それはそれでいいのだが、近付いている農業改良普及員の面接試験の時、頭はどうしたのか聞かれたらどう答えるのかと聞いたら、そういえばそうだった、どうしたらいいか、困ったという。
 そこで私は秘策を授けた。
当日やはり聞かれた、来た、しめたとばかりに彼は私の教えた通りに答えた、「実は私、失恋しまして」、とたんに満場大爆笑、質問した試験官の方も笑いながら「ごめん、ごめん」と謝ったと言う。
 もちろん合格である。坊主頭もいいものである。

なお、今私どものいる老人ホームの入居者の頭髪、当然のことながら白髪、銀髪、男性には禿頭、半禿頭もいる。これ(自分の白髪頭も含む)についての論評は差し控えることにしよう。

(注)
1.監督:ウィリアム・ワイラー、脚本:ダルトン・トランボイアン・マクレラン・ハンタージョン・ダイトン、主演:グレゴリー・ペック、オードリー・ヘプバーン、パラマウント映画、アメリカ合衆国、1953(昭28)年、日本公開 1954(昭29)年。これまた傑作である。
2.脚本:北川悦吏子、演出:生野慈朗・土井裕泰、『Beautiful Life 〜ふたりでいた日々〜』、2000年1月16日~3月26日の毎週日曜21:00 -21:54、TBS系「東芝日曜劇場」で放映。若かりし常盤貴子と木村拓哉の名演技、もし機会があればご覧いただきたい。

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