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JAの活動:持続可能な社会を目指して 希望は農協運動にある

作る責任、売る責任 継承――焼き芋人気の仕掛け人 棚谷保男 JAなめがたしおさい組合長に聞く2020年12月11日

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イモ侍、イモ姉ちゃんという言葉があったように、昔はサツマイモ、甘藷(かんしょ)は軽蔑の対象だった。しかし江戸時代の相次ぐ飢饉(ききん)や戦争中の食料不足の時、甘藷は救荒作物として多くの人の命を救った。今ではヘルシーな食品として女性の人気者。茨城県は、甘藷が原料である干し芋生産で日本一。他の追随を許さない。自然の高級和菓子と言われている。最近では、なめがたしおさい農協が焼き芋を全国のスーパー店頭で販売し、人気を博している。その原動力となった同農協の棚谷保男組合長から導入時の苦労話や日本農業賞、天皇杯に輝いた秘訣(ひけつ)、そして今後の展望などを聞いた。(聞き手は元茨城県ひたちなか農協専務・先﨑千尋)

茨城・JAなめがたしおさいの棚谷保男組合長茨城・JAなめがたしおさいの棚谷保男組合長

運動の原点「米」で学ぶ

――組合長は高校を卒業後、1974年に農協に入りました。家は農家だったんですか。

専業農家だったが、規模が小さく、おやじは冬には出稼ぎに出ていました。周りはみな葉タバコの栽培をしていたが、おふくろの体が弱く、葉タバコはやっていなかった。近くに農協の組合長がいて、週末は自分の家の農業ができるから、農協に勤めたらと誘われ、農協に入った。周りの人はみな鹿島開発でできた会社に勤めており、農協の給料は5分の1くらいだった。

――農協に入って、最初から営農担当だったんですか。

最初は購買事業。それから営農に回された。そして米作りと野菜の栽培を勉強した。玉川農協で米プラスアルファー方式をやっていたので、農協に入ってすぐのころ、組合長だった山口一門さんに話を聞きに行った。その時、「棚谷君。貯金や共済は、毎日やれば1カ月で覚えられる。だけど米作りは1年に1度。36回やったらおしまいだ。貯金は間違ったら赤鉛筆で直せるが、米作りは失敗したらその年は終わりだ。そこが違う」と言われたね。山口さんから、農協運動の原点を教わり、今でもその時のことが脳裏に焼き付いている。

――どうして甘藷を普及しようと考えたのですか。

自分の家で作っていたから。農協では甘藷を取り扱っていなかった。それでやってみようと思った。葉タバコを作らない農家に勧め、2年目に50人で部会を作った。
当時、隣の北浦村(現行方市)ではミツバとセリの栽培が盛んで、任意組合が力を持っていました。農協は米だけで、野菜には手を出さなかった。周辺の甘藷はほとんどがデンプン用で、食用は作っていなかった。最初は早掘りの甘藷を手掛けたが、どこも相手にしてくれなかった。そこで甘藷の先進地である千葉県の農業試験場に行き、教わった。
1981年になって茨城県農業試験場はやっと重い腰を上げ、当時の麻生町(現行方市)で現地試験を始めた。86年にサメ肌病が大発生し、原因が分からず、これは大変だと宮崎県にウイルスフリー苗の勉強に行き、衝撃を受けて帰ってきました。88年にウイルスフリー苗の育成を始め、今ではすべてこれでやっています。この導入によって、芋の品質が向上し、10アール収量も2トンから3トンと大幅に上がった。

――なめがたしおさい農協と言えば、スーパーでの焼き芋の店頭販売として有名ですが、現在は何店舗で売っていますか。

3000店舗くらいかな。始めたころは、芋は食べるものではなく、陳列台に飾っておくものと言われてびっくりした。消費者は煮たり蒸かしたりして食べなくなったから。2003年に、静岡県のスーパー・マックスバリュ東海から話が来て、店頭での焼き芋販売が始まった。当初は50店舗だった。

定温貯蔵で周年出荷へ

最初の年はうまくいったが、2年目は失敗した。10月から始めたが、芋が糖化していないので、固くてポクポク。売れなかった。味にばらつきがある、うまく焼けないなどの苦情も来た。そこで茨城県との甘藷技術体系化チームで「焼き芋プロジェクト」を作り、栽培技術からマーケティングに重点を移していった。2006年には定温貯蔵庫が完成したので、焼き芋の周年出荷体制を確立した。おいしく焼くためのマニュアルも作りました。
現在では、新芋の時期に適した「紅優甘」(べにはるか)、年明けごろに適度なしっとり感と甘さがある「紅まさり」、長期貯蔵でおいしくなる「紅こがね」(べにあずま)の3種類を時期に合わせて出荷しています。若い人はねっとり系、高齢の人はほくほくの芋が好きと、年代によって好みが違うね。

――焼き芋用の甘藷は、農協の販売高のどれくらいの割合ですか。

半分くらいかな。北海道から九州まで行っている。市場出荷したのも、どこで売っているかまで追跡している。農産物は生産者、農協、市場、販売店が役割を分担しあう分業だと思っている。作る人、売る人が責任を持ち、約束したことを守る。甘藷だけでなく、チンゲンサイなど私たちが扱っている農産物はすべてそういう考えでやっています。消費者の生の声を聞くために、生産者が定期的に店舗周りをしている。

――2017年になめがた農協甘藷部会連絡会が日本農業賞大賞と天皇杯を同時受賞していますが、どうして受賞できたのでしょうか。

情報共有で天皇杯受賞

国は農業者を専業、第一種兼業、第二種兼業と分けているけれども、我々は企業的経営、家族的経営、生きがい農家に分けている。それぞれの目標は違う。企業的経営農家は年間を通して安定的な収入を得たい。家族的経営農家は1箱2000円もする品質の高いものを作り、所得を上げたい。生きがい農家は売れればいい。どの道を選ぶかは農家の自由だ。
農協は、情報は農家に平等に提供する。しかし出来た芋については、その品質によって販売単価に差がついてくる。農家に高い目標を持たせるのと同時に、私たちは天皇杯の受賞を目標にした。
もう一つは、白ハト食品工業㈱との提携。国が推奨する農業の6次産業化を実現したことです。小学校の廃校を活用し、大学芋などの加工施設、焼き芋のことが学習できるミュージアム、地元の野菜などを使ったレストラン、直売所、耕作放棄地を開墾した体験農場を併せ持った「なめがたファーマーズヴィレッジ」を2015年にオープンさせました。
「見る、食べる、育てる」ことを目標にした日本初の体験型テーマパークです。これまでは、取れた甘藷の内、商品として出荷できるのは75%くらいで、残りは捨てていた。しかし今度はそれを白ハトが買ってくれる。我々がめざすものは、生産された物をすべて販売すること。それによって、販売単価の向上だけでなく、年間の所得向上につながる。
今では、甘藷の平均単価は1キロで200円を超えている。ここで働く人たちはほとんどが地元の人たちで、雇用の拡大にも役立っています。

――天皇杯の次の目標は何ですか。

甘藷の海外輸出、焼き芋を世界に発信することだね。輸出ということになれば、日本を代表して送るんだから、生半可なことではできない。2018年にブランド品種の「紅優甘」をカナダへ初輸出、現在はタイ、香港、シンガポール、フランス、ドイツに輸出しています。昨年は40トン、今年は100トンと伸びています。焼き芋での食べ方を海外に提案し、世界共通語として「YAKIIMO」を広めたい。

――なめがた農協は昨年(2019年)にピーマン日本一のしおさい農協と合併しました。合併しないでもやっていけると思っていたんですが。

先を見通し大同団結も

どちらの農協も3、4年先までなら大丈夫だが、10年先を見通すと、一抹の不安があった。生産者が年々減っている。金融関係も厳しくなってきている。経営体としては合併、信用共済は組織再編・統合、販売は事業連携だと考えています。合併によって販売高は200億円を超え、対外的な評価も高まっている。昨年の決算では、県内17農協中トップの成績でした。
農協経営で大事なことは、農家が生産したものをいかに高く売るかだ。高く売れなかったら農家は出荷してくれない。そのために職員、常勤役員は努力しなければならない。赤字では誰も信用してくれない。

――最後に、後継者づくりをどう考えていますか。

私の最大の役目は、この豊かな地域を次の世代に引き継ぐこと。農協内部では、経営はこの人、販売はこの人に引き継ぐと考え、育てています。我が家でも県庁勤めしていた36歳になる息子が、仲間と農業生産法人を作って甘藷を10㌶、水田を3ヘクタールやっています。家の後継者ではなく、地域の後継者を育てることが極めて大切だね。

【インタビューを終えて】
リーダーの行動大切

私は、同じ茨城でありながら、私が住む県北地域と鹿行地域の農業はどうしてこんなに違うのかを考え続けてきた。その一環として、戦後の農民運動で、全国レベルで活躍した常東農民運動のリーダー山口武秀の評伝をまとめるために、最近の同地域の農業の実態をつかもうと、関係者の聞き取りを行ってきた。今回話を伺った棚谷保男さんやなめがた農協の會田春美さんもその一人。ピーマンの大産地である波崎町(現神栖市)の農業については、2003年から2年間、同町の委託を受けて調査に入り、松千両の生産も含めて、他の地域と全く違う営農形態があることを知った。
今回のインタビューでは、棚谷さんの甘藷にかける思いを聞くことが中心だったが、リーダーの熱意と行動がすべて。理屈だけでは組合員はついてこない。「農家の希望は農協運動こそにある」ことを改めて認識することができた。(先崎)

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