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人間を幸せにする営み 経済活動を本来の姿へ  浜矩子・同志社大学教授講演会2015年2月12日

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【2015新春特別講演会】アベノミクスこの国のかたちを考える
・「取り戻したがり病」症状重い安倍政権
・一部分だけ“熱く”壊れたホットプレート
・国家の責任を放棄国民に奉仕求める
・己の欲すまま行動矩を超えない倫理
・耳と目、そして手で大人のあり様示せ

 一般社団法人農協協会、農業協同組合研究会、新世紀JA研究会は1月29日、浜矩子同志社大学教授を招いて「アベノミクス この国のかたちを考える」をテーマに新春特別講演会を行った。同教授は、安倍政権が進めようとしている「力の誇示」、「儲ける経済」を、「人権の礎(いじづえ)」とする経済に切り換えるべきだと主張する。講演の要点を紹介する。

所得配分のゆがみ是正を

 ことしは平和を象徴する羊の年、新約聖書のなかでキリストが弟子たちに、「私があなたたちを世の中へ送り出す。あたかもオオカミの群れに入れるようなものだが、あなたたちは、蛇の賢さと鳩の素直さをもって布教して欲しい」と言っている。蛇のように狡猾で賢く、鳩のような素直さがないとオオカミの餌食になる。オオカミをおとなしくさせるにはそれが必要だということである。2015年は蛇の賢さ、鳩の純真さ、羊の柔和さで臨む年でありたい。
 安倍政権の政策は、一般的には「アベノミクス」と言われているが、怪しげなアベノミクスが市民権を得て一人歩きするのは危険だ。これを「アホノミクス」に替えて批判したい。この言葉、最初は遠慮しながら使っていたが、もうそんな場合ではないと考えている。

◆「取り戻したがり病」症状重い安倍政権

浜矩子教授 経済だけでなく、本質のところで平和が脅かされている。その背景は、非常に性質(たち)の悪い流行病(はやりやまい)に罹ったようなものだ。エボラ熱に劣らずグローバルな猛威をふるっている。この病気を「取り戻したがり病」と名付けたい。いま世界の津々浦々で何かを取り戻したがっている。ロシアのプーチンはロシア帝国、イスラム国は大イスラム、アメリカは何を取り戻したいかもわからなくなっているようだが、古き良きアメリカだろう。
 この病気は安倍政権が特に重く、「大日本帝国」を取り戻したがっている。今の政治はその病気に罹り易い体質があるようだ。なぜこの病気が流行(はや)るのか。端的に言うと、ヒト、モノ、カネが国境を超える一方で、「国」は国境は超えられない。国境を前提とする国がグローバル化の中で存在意義を取り戻したいと思っているのだろう。
 国境なき時代だからこそ、人々はひとりでは生きていけず、支え合うのである。その賢さに目ざめたとき、グローバル化を上手に扱い、果実を得ることができる。だが国境を取戻したいと思うときこの病に罹り、時代錯誤的な世界観をもって邁進しようとする安倍政権のようなものが生まれてくるのである。
 この病に罹ったらどうなるか。それは安部首相の言葉の使い方でよく分かる。発足した2012年12月、公約スローガンは「日本を取り戻す」だった。どんな日本を誰から取り戻そうと言うのか。それは昨年の年頭所感で述べている。8分半ほどの演説で「取り戻す」が3回も出た。取戻すのは1回目が「強い日本」で、2回目が「強い経済」、3回目が「誇りある日本」だった。このフレーズはいかにも、アグレッシブ(攻撃的)で戦闘的だ。
 さらに昨年6月末の閣議で決めた「日本再興戦略2014年版」では「日本の稼ぐ力」となっている。いかにも品のない言葉だ。つまり「強い経済」とは「稼ぐ経済」である。その結果、見えるべきものが見えなくなった。
 それは日本経済の実態である。彼らは成長すること、強くなることが火急の課題と考えている。しかし、本当に日本が直面していることは違うところにあるのではないだろうか。

(写真)
浜矩子教授

◆一部分だけ“熱く” 壊れたホットプレート

浜教授の話に耳を傾ける参加者 いま日本は「壊れたホットプレート」のようなものだ。ホットプレートが機能を発揮するには、プレート上に万遍なく熱が行き渡ることが必要である。それでおいしい料理ができる。ところが、いまわれわれは、できの悪いホットプレートをつかまされている。
 豊かさのなかの貧困経済。まったくバカげた状況だ。これを解消しないと、デフレ解消は夢のまた夢になるだろう。熱いところをいくら熱くしてもだめだ。やがて壊れてしまう。それが経済恐慌だ。この欠陥プレートを修繕して、全体に熱が行き渡るようにしなければならない。
 このことが分かれば成長戦略でなく修繕、つまり所得分配のゆがみを是正しなければならない。ところが安倍政権は、容易に熱くなるところばかり熱くしている。しかし二極分化で熱さが全体にいきわたることはない。トルクルダウンは幻想である。幻想というより、もうまやかしである。均等に熱が伝わらず、ムラができるプレートは欠陥商品である。
 いまの日本経済もこれと同じ。その上で舞い上がっているのが、円安による輸出増の大企業だ。一方で非正規雇用者、ワーキングプア、貧困層、恒常的な失業者が拡大している。これがいま最大の問題だ。
 上を厚くすると、しずくが下にたれるというトリクルダウンが唱えられているが、もとは1920年代に格差の大きくなった経済を批判する意味で使われたもの。それを知らずに使うのは笑止千万である。また、19世紀には強いものをより強くする政策に、「馬を食わせれば雀もえさにありつける」と揶揄(やゆ)されたものだ。それと同じことを安倍政権がやっている。壊れたホットプレートを修復すること、つまり経済格差を是正しないと、今の日本経済が抱えている根本的な問題は解決できない。

(写真)
浜教授の話に耳を傾ける参加者

◆国家の責任を放棄 国民に奉仕求める

参加者との意見交換も活発に そして安倍政権は考えてはいけないことを考えている。それは「日本の稼ぐ力を取り戻す」というところにある。近代的な資本主義による国民国家は、国民に奉仕するためにある。公共サービスの提供は国民と国家の契約である。サービス事業者としての国家が最高のレベルで提供してくれることを前提に国民は税金を払っているのだ。そういう関係がまともだが、安倍政権はこれを逆転させ、国民が国家にサービスを提供させようとしている。 「稼ぐ国家」のなかにこの考えを非常に強く感じる。目指すは強い経済、強い国家と言っている。ひたすら国民が国家を強くするために頑張れというお説教が続いている。文言にはないが、かつての「総員、奮励努力せよ」のスローガンが浮かび上がるようだ。「攻めの農業」にしても、国民一人ひとりが考えないと、もう明日はないと脅しているようなものであり、この状態を非常に危惧する。
 いかに事業で稼ぐか、資本効率を高め、成果のあがるガバナンスを持つかということには関心があっても、企業の社会的責任についてはいっさい出てこない。倫理観がまったくない。企業も個人も、国家の強さを取戻すためにあるべきだと言って、国のあり方をその方向に持って行こうとしている。その観点はコールドスポットの人はどうでもいい、ということである。トリクルダウンがなくてもよい。強い者をより強くすることで力が強まるという富国強兵の体系のなかですべてが動いているようにみえる。
 ではその方向をどう阻止するか。本当に取戻すべきものは何か、そのための条件は何か。まずわれわれは、経済活動本来のあり方はどうかということを再認識しなければならない。経済活動本来の姿を実現すると、取り戻したがり病を断ち切ることができる。
 本来の経済活動とはなにか。それは端的に言うと「人間の営み」である。経済活動を営むのは人間だけである。それが経済活動だ。そのような活動が人間を不幸にするはずがない。われわれは、人間を幸せにする営み以外は経済活動として認めたくない。
 国のため、は経済活動ではない。人権の礎となってこそ経済活動であり、人権を踏みにじるのは経済活動ではない。そのことを認識しておく必要がある。現実問題として、経済が前に出るほど人間が脇に追いやられ、労働者いじめが横行している。人間と経済活動は対立関係にあるという状況を目の当たりにしている。それが経済と人間の関係だと思い込むようになり、経済活動の結果で仕方ないと思うようになったら、それは取り戻したがり病に罹ったと思わなくてはならない。
 典型的なのは「ブラック企業」だ。この言葉は問題の所在を言い当てているが問題がある。「ブラック企業」と言ってしまうと、ブラックな行動している組織を「企業」といってしまい、「企業」として認知することになる。企業経営つまり経済活動は人間の生活であり、その活動がブラックであるはずがない。だから「ブラック」だけでとめておくのが正しい。安易にブラック企業と言うのではなく、企業とは相容れないのだという認識が必要だ。正しい経済観を取り戻すことが重要である。

(写真)
参加者との意見交換も活発に

◆己の欲すまま行動 矩を超えない倫理

 人間の営みとして経済活動を見る上で参考になる歴史上の人物がいる。中国の儒者、孔子である。論語に「己が欲するところに従えど矩(のり)を超えず」がある。自分の夢を追求するが、矩を超えずである。「矩」とは社会規範、行動規範、規律、節度、人に迷惑をかけない、他人を泣かせないことである。本当に自分が思った通りやって、人を傷つけることないという、いわば「黄金バランス」である。経済活動もそうであり、「経済は儲けること」などという人が入る余地はない。
 「稼ぐ力」などといっているオオカミどもから経済を奪還するにはどうするか。
 安部政権は「威信ある国家」を取り戻したがっているが、近代的、民衆主義国家とはそういうものではないはずだ。
 いま話題になっているピケティは、『21世紀の資本』で、「国家の社会性」について述べている。国家は社会的存在であり、公正・平等・社会正義がちゃんと機能するために、その番人として存在意義があるのだが、国はその社会性を失っていると指摘する。今の日本がその典型かも。
 ちなみに国民に対するサービスを行うためには国の財政が健全でないといけない。国が膨大な借金をしていては、サービス実施者して契約違反である。しかし日本はその規律を無視してきた。GDPの233.8%の借金があり、これではまともなサービスできるわけがない。それでいて強い軍事力という。これは国家の国民に対する背信行為だ。訴訟を起してもよいくらいだ。

◆耳と目、そして手で大人のあり様示せ

 バランスのとれた経済活動を営むために必要なものが3つある。それは「耳」と「目」と「手」である。耳とは、「傾ける耳」、つまり人のいうことを聞き取れること、目は「涙する目」、人のために泣ける、もらい泣きできる目である。
 手は差し伸べる手、人に差し伸べ、違和感がある人でも受け止める手。この三拍子のある人が行う経済は「矩」を超えない。稼ぐ力や「ブラック」に惑わされたり、トリクルダウン発想にはならない。この3つを持つ人間は、「大人」であるといえる。それは大人と子どもの違いでもある。子どもにできないことはもらい泣きであるが泣くのは自分のためである。国境なき時代に、われわれがどこまで大人になれるか。羊は平和の象徴である。羊のあり方が、いま一番必要な大人のあり方かもしれない。
 取り戻したい病は幼児性が強い、「幼児的凶暴性」というべきか。安倍政権のように、逆らう人には予算をつけないというのがそうだ。幼児的凶暴性が出ると、世の中とんでもない方向に行ってしまう。
 それを引き出してしまうのか、そうではなく賢い大人の戦いを展開するか。大人の力で軌道修正することがいま、われわれに問われている。


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