『だれが』でなく『なにを』 横井 小楠【童門冬二・小説 決断の時―歴史に学ぶ―】2021年7月31日

小楠の開国論にひそむ攘夷論
私たちの社会慣習に、「なにを」でなく「だれが」というのがある。「なにを云っているのか」という内容でなく、「だれが云っているのか」と云い手を問題にするのだ。この考えに凝り固まっていると、どんなにいいことを云っても、「あのヤローのいうことじゃ信用できない」と一蹴してしまう。
幕末の思想家横井小楠(一端は令和二年夏に紹介。今回は別のエピソードで)は、この慣習の大いなる犠牲者といっていい。熊本細川藩のすぐれた学者だったが、酒癖が悪く大言壮語のクセがあったので、国元では多くの人の信用を失い、遠い越前福井(福井県)藩主松平慶永(春嶽)に期待されて、藩の学師と藩政改革の指導に当った。元々熱心な儒学者だから「学政一致」「経世安民」の強い信条を持っていた。
「経世安民」は「経世済民」ともいう。「誤った政治を正しくととのえ(経世)、苦しんでいる民をすくう(済民)」という意味だ。
「経済」というのはその略語で、単なるソロバン勘定ではない。「民をすくう、安んずる」
という、大きな政治目的を持っている。
慶永が幕府に新設された「政治総裁」になった。西南雄藩(長州・薩摩・土佐藩)の圧力に屈してつくられた老中の上位職だ。幕府側では歓迎しない苦々しいポストだ。慶永にして決して坐り心持のいい座ではない。松平の姓を名乗るように、慶永は家も徳川家とは濃厚接触の関係にある。しかしペリーの来日以来、幕府は外交問題でゴッタ返している。クールでそれこそ「安民」の対応策が必要だ。慶永は小楠を政治顧問にした。「かれは酒癖が悪いので」なンて云ってられない。慶永は日頃から小楠の意見を卓見として尊重していた。
当時、日本の国論は「攘夷(外国は打ち払え」と「開国(鎖国をやめて交易を行なえ)」の真っ二つに分かれていた。
「横井先生、ご意見を下さい」慶永の要求に小楠は興味深い策を出した。
「港を開いて交易をお認め下さい」
「では開国ですか。攘夷論者が黙っておりますまい」
「ですから条件をつけましょう」
「どのような?」
「交易は道のある国に限る、と。つまり孔子の教える礼や道徳を守る国のことです」
「いま、世界にそんな国がありますか?」
「さあ、どうでしょう」小楠は笑った。小楠が説明しなくても英明な慶永は覚っていた。
日本はアメリカのペリー特使の幕法(当時は国法)を破る強引な圧力に屈して、開国条約を結ぼうとしている。小楠にいわせれば、
「これは道徳のない国のやることだ」
したがってかれの提案した条件に反することになる。日本に対する以前に欧米列強はすでに隣国清(しん=当時の中国国名)に対してもっとひどいことをしている。イギリスなどアヘンを利用して戦争にまで発展させた。
「安民」は「道」が前提
「清は孔子を生んだ国なのに、なぜでしょう?」慶永は訊く。小楠は答える。
「それは清が道を失っているからでしょう」
「ははあ」
愚(おろ)か者でない慶永は覚る。
「では先生が云われた先程の条件は?」
「そうです、ご明察の通りです。私の考える交易は道のある国同士の行為なのです。日本が交易を行なうためには、日本がまず道のある国にならなければなりません」
そう云って小楠は凝っと慶永を見た。その眼は、
「それが政治総裁の役目ですよ」
と語っていた。慶永は察して苦笑した。
「大任だ。私には重すぎる」
「いや」小楠は首を振った。
「いま世界に道のある国などひとつもありません。しかし」
「・・・・?」
「なれる国がひとつだけあります。いうまでもなく日本です、わが国です」
しかしこの時慶永は、
「先生のお話はよく理解できるが、そんな気長なことはしていられない、と交易を迫られたら?」と訊いた。小楠は落着いて答えた。
「その時こそ攘夷です」
「戦争になります」
「戦うべきです」
「しかし」慶永は現実を知っていた。
「今のこの国の国力では」
「敗けます。敗けても日本は世界の道のある国。今はありませんが、訴えるべきです。それには日本が道のある国でなければなりません。それが急務です」この時の小楠はすでに国内の藩(大名)連合と、世界の国々の連合を考えていたようだ。「安民」はそういう事業であり「経済」はそのための政治なのだ。
しかし「なにを」と「だれが」の悪習は、慶永ひとりでは破れ切れなかった。
小楠はもっとヒドい誤解を受けた。
「小楠はキリスト教に国を売ろうとしている」と。
横井小楠は一般に、
「開国論者だ」と位置づけられている。しかし儒学者らしく、"道(道徳・礼)"を基準にして、
「道のない国とは場合によっては攘夷だ」
と″部分攘夷論"を考えていた。このあたりは小楠も影響を受けた佐久間象山に似ている。象山は当時の日本の状況解決に″和魂洋才(芸)"を唱え、小楠も"東洋の道徳、西洋の芸術(科学)"を唱えた。しかし"だれが"の悪習で"なにを"が深読みされずに、逆に誤解されてしまった。
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