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忍び寄る小麦色の影-1954年のこと-【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第135回2021年2月4日

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1950年代、農地改革、食料増産政策の成果が徐々にあらわれ、農業生産力は戦前水準を上回るようになり、農村社会の民主化も進んだ。農家の暮らしも戦前に比べると格段によくなった。しかし、経営面積の差や地域による貧富の格差は厳然として存在し、過重労働は基本的に変わらず、都市と農村との所得格差は広がる一方だった。

さらに、小麦色の影がアメリカから日本の農業に忍び寄ってきていた。

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アメリカは、戦火に巻き込まれて食料が足りなくなった国々に売り込むために、戦中から戦後にかけて食糧を増産してきた。しかし各国の農業生産が復興してくるなかで農産物は売れなくなり、大量に余るようになってきた。そこでアメリカは1951(昭26)年MSA(相互安全保障法)を制定し、いまだ食料不足・外貨不足に悩む世界の国々に小麦を始めとする食料援助を行って余剰農産物を処理することにした。さらに1954(昭29)年には、余剰農産物処理法(PL480法)を制定し、輸入農産物の代金は後払いとしてその一部はその国の経済復興とアメリカ農産物の市場開拓費に使えるようにした。

日本の政財界は積極的にそれを受け容れた。外貨不足で困っていた財界は、後払いとなった輸入農産物代金を機械や原料などの輸入にあてて工業生産の発展を図ろうとしたのである。そして政府は小麦を低価格で大量に輸入した。

それはまずわが国がこれまで力を入れてきた小麦の増産にストップをかけ、さらにはその生産を減少させた。私の生家でも引き合わない麦の栽培をやめた。米単作といわれる宮城仙北でも家の裏山につくられたわずかの畑で小麦や大麦をつくっていたが、どうしようもなくなってきた。それでビール麦に切り替え、その定着に努力した。しかしそれも結局だめになり、戦後力を入れた三色運動(注)は衰退し、東北の麦は姿を消すことになった。関東以南の長い歴史を誇る米麦二毛作も徐々に姿を消し、東北と同じ米単作へと後退するようになった。

麦の「安楽死」がこの1954年から本格的に始まったのである。

それだけではなかった。余剰農産物処理法はわが国の米の消費と生産に大きな影響を与え、後に日本農業の中心をなしてきた稲作を脅かすことになった。

1955(昭30)年ころから、「米を食うと脳溢血になる」、「米を食うと早く年をとり、命が短くなる」、「米を食うと頭が悪くなる」、「粒食をするのは後進民族であり、粉食は文明民族である」、こんな言葉が新聞雑誌、ラジオ、書籍のなかにしょっちゅう見られるようになった。そして、マーガリンを塗ったパンと牛乳、それにハムエッグが欧米流の朝食であり、これこそ「文明国」の「進んだ」「近代的」食生活である、「パン食は健康にいい」、「パン食をしないから日本人の身体は小さい」、こうしたパン礼賛ムードをマスコミはあおった。栄養学者はそれを科学的に裏付けたと称し、栄養士は栄養改善運動を展開してそれを宣伝普及した。

これは敗戦国日本人の劣等感を刺激した。われもわれもとあこがれのアメリカの小麦を使ったパン食なるものに移行し始めた。それはまた、本格化し始めた高度経済成長にともなう都市の肥大化、通勤時間の増加、遅い夜食、朝食時間の早朝化と短縮などによって拍車をかけられた。

一方、全国の町や村のまだ舗装されていなかったでこぼこ道路をピカピカのキッチンカー(料理実習講習車)が埃をまきあげながら走り、パン食を教え、アメリカの小麦を使った料理を普及して歩いた。都市の栄養士ばかりでなく、生活改良普及員も農家のご婦人を対象に講習会を開いて小麦(もちろんアメリカの)を使った料理法を教えた。

同時に、政府は学校給食を全国の小学校で実施するように、しかも完全給食と言うことで必ずパンを主食として出すようにした。アメリカ産の小麦と脱脂粉乳が全国の子どもに毎週5日必ず供給されるようになったのである。

こうして小麦食が全国に普及するようになってきたのだが、その普及のためのお金、つまり宣伝費からキッチンカー代、学校給食への補助金、栄養学者・栄養士の動員費等々まで、すべてアメリカが提供したものであった(ただしそのお金はアメリカの余剰小麦を買うのに日本の消費者が払った金の一部、つまり後払いとなった小麦輸入代金を用いた市場開拓費だったのだが)。

それを明らかにしたのが、1978(昭53)年11月に放映されたNHK特集『食卓のかげの星条旗 米と小麦の戦後史』であった。小麦の消費拡大を狙うアメリカの組織的な売り込み計画に政財界、マスコミが協力し、栄養学者の一部をまきこんで日本人の食生活を大きく変えたのである。この小麦戦略がこれほど成功した国は世界中にない、「呆れるほど見事な成功例」だとアメリカが評価したという。これはいかに日本政府がアメリカの言いなりになったか、日本の学者や消費者がアメリカ文化にいかに弱かったかを示すものであろう。そしてそれが後の米の減反につながることになる。

しかし当時はこうしたアメリカの動きやねらいがわからなかった。当然それが健康や農業に及ぼす深刻な影響もわからなかった。

1950年代は、いろいろ問題は残っていても、ともかく民主化が進み、農業生産力も発展し、農家の暮らしもよくなってきていた。しかし、ちょうどそのころアメリカの小麦色の影が日本農業に忍び寄ってきていたのである。そして1960年以降その影が本格的に日本を覆うようになり、農業、農村は大きく変えられることになるのである。

もう一つ、50年代に農業生産力を大きく高めた農薬、除草剤が水田や畑の生態系を大きく変え、さらには国民の健康問題まで引き起こすものであったことも徐々に明らかになってきた。

そしてまた1950年代は、若者の農村から都市への流出が本格化しはじめる年代、農村の人口減少、過疎化のきざしが見え始めた年代でもあった。

(注)JAcomコラム・2020年7月2日掲載・拙稿「幻と消えた雪国の水田二毛作」参照

酒井惇一(東北大学名誉教授)のコラム【昔の農村・今の世の中】

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