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見なくなった案山子、燕・雀・烏【酒井惇一・昔の農村・今の世の中】第353回2025年8月14日

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 「文部省唱歌」(注1)にこんな歌があり、われわれが子どものころは都会の人も含めてみんな案山子(かかし)を知っていた。田んぼにいけばよく見かけたものだったからである。
  「山田の中の 一本足の案山子
   天氣のよいのに 蓑(みの)笠着けて
   朝から晩まで ただ立ち通し
   歩けないのか 山田の案山子」(注2)
 しかし、今の子どもたちたちにはわからない。案山子は山形県上山市の全国かかし祭りのような行事や何かの宣伝でしか見られなくなった、と書こうと思ったら、昨年祭りは廃止となったそうた。案山子など知らない人々の時代になったのだ、これも時の流れ、やむを得ないことなのだろう。でもさびしい。

 20年くらい前、和歌山県の熊野に行ったときのことである。川沿いに上流から下流までたくさんの案山子が立っている。しばらくぶりで見た。なぜ川原などに案山子を立てているのだろうか。聞いたら、アユなどの川魚を食べにくる鵜(う)を追い払うためだという。
 しかし田畑には一つも立っていない。米よりも川魚を保護する方が重要になったのかもしれない。
 それにしてもしばらくぶりだった。しかしその後見たことがない。
 田んぼの雀は追い払わなくともよくなったのだろうか。雀による米の被害などもうどうでもいいと思うほど米作りに対する意欲が低下してしまったのだろうか。それとも、そんなことをしなくともすむくらい雀の数が減ってしまったのだろうか。

 いや、案山子などよりも網を張って防いだ方が効果があるからなのかもしれない。しかし、近年雀の害を防ぐために網を張っている田んぼなど見たこともない。
雀がいなくなったためなのだろうか。

 燕の数は減っているのだそうである。そういえばもう何年も見ていない。
 一方、私たちが害鳥と考えていた雀の数も減っているらしい。
 毎朝のように番いの雀が私の家の庭にくるのであまり感じなかったが、そういえば電線に雀がずらっと並んでいるなどという光景を見なくなってからもう何年になるだろうか。あれはもう昔の光景になってしまったのだろうか。やはりそれが案山子の必要がなくなった一因なのだろうか。
 私たちにとってもっとも身近だった鳥にいったい何が起きているのだろうか(人間が何を起こしているのかと言った方が正確なのかもしれないが)。人間の暮らしにもっとも密着して生きてきた燕と雀が減っていること、これは人間の暮らしがおかしくなっていることを意味するのではなかろうか。

 今から十数年前の7月初め、仙台でのことである。近くの生協ストアに買い物に行ったら、外に面しているエレベーターの前の天井のところに燕が飛んできては鳴き、また飛んできては鳴く。何だろうと思ってよく見るとそこにツバメの巣の跡があった。誰かがこわして片付けてしまっている。生協の人なのか、そのビルの他の入居店舗の人なのかわからないが、きっと燕の糞が落ちて買い物客、利用客から苦情が出たからなのだろう。
 巣の中に生んだ卵あるいは雛も片付けられてしまったのだろう。燕が何度も何度も悲しそうな声で鳴きながら、行ったり来たりしている。悲しい気持ちでそれを見たものだったが、あれは烏がいたずらで落としたらしい、それを職員の方が後片付けしていただけのだとの情報が後で入ってきた。それで安心した。人間がこわしたわけでもなく、私の誤解だったらしい。
 それで思い出した、最近の燕の減少は烏の増加によるものだと聞いたことがあることを。
 その烏を増やしたのはゴミを大量に捨て、しかも捨てるルールを守らない人間の存在である。どうもここに最大の問題がありそうだ。
 しかし、それだけでもなさそうだ。巣をつくられた建物の住人が巣をこわすという事例が多々あるとの話を聞いたことがあるからだ。
 たしかに糞は困る。だからその昔、巣をつくられた家の人は巣のすぐ下に板などをおいて糞が頭や衣服に落ちないようにしたものだった。ところがそうした努力もしないでこわしてしまう。きっと燕がどんな役割を果たしているのか、いかにこれまで人間に大事にされてきたのかを教わって来なかった人なのだろう。
 燕は幸福を運んでくる、燕はやさしい気持ちをもった人の住む家に巣をつくると言われたことも知らないのだろうか。
 いずれにせよ、人間が燕を減らしているようだ。困ったものだ。

 「燕雀(えんじやく) 安(いずく)んぞ 鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」
 燕と雀がいなくなったらこの言葉の意味がわからなくなってしまうことだろう。
 鴻=コウノトリと鵠=オオハクチョウ、このような大きな鳥を保護するのは当然だが、われわれに身近な燕や雀など小さい鳥の保護にもっと力を入れる必要があるのではなかろうか。大物だけではなく私のような小物もいる、それも大事にすることで世の中バランスがとれるのだ。
 といっても、烏(からす)、これも人間の暮らしと密接に関連しているようだが、これは増えてもらいたくない。今は雀のかわりに烏が電線にたくさん並んでいる。そしていろいろ悪さをする。これも何とかならないだろうか。
などと言えたのは今から10年くらいまで、その烏も少なくなってきた。電線に並ぶ烏、何年見ていないだろうか。これはいいこと、しかしそれは人間の好き嫌いからくるだけのもの、本当に烏がいなくなっていいのかとも考えてしまう。

住んでから10ヶ月の東京・町田市、ここの六階の住居のベランダからまだ一匹の鳥も見ていない。でも、階下に見える小学校の桜の木の下を通ったときに雀の姿を見、鳴き声も聞いてるので、いることはいるのだろう。しかしそれ以外の鳥は見ていない。
 夕焼け空を急いで家に帰る烏はもろん、一時期有名になった都会の生ゴミあさりの烏、これも一度も見たことがない。
 代わりに飛んでいるのは羽田空港に離着陸するために低空を飛ぶ飛行機だ。

当然だろう、鳥がいないのは。
 コンクリートだらけで土がない、庭もない、雑草も生えない、虫もいないのだ、それに加えて生ゴミの管理が厳しくなっているのだから、鳥の餌がないのである。
しかし、8月に入ってのある朝早く、わが住処・六階建ての老人ホームのベランダに出た時、左下に見える小学校の桜の古木の並木の方から雀の合唱らしきものが聞こえてきた。それからセミらしい声も聞こえてきた、すぐに高まる雑音に消されて聞こえなくなったが。
うれしかった、しかしすぐにまた考え直した、私の空耳ではなかったのかと。
いつもうるさいゴーッという雑音(ひっきりなしに通る自動車、電車、何万台もの冷暖房器等々から吐き出される合成音)、私の聴覚器官はそれに慣れきって狂ってしまったのではなかろうか、淋しい、悲しい、苦しい。
 でも私は信じたい、あれは雀の啼く声だったのだ、やがてセミの声も聞こえてくるだろう、聞こえないとしてもそれは私の耳が老化したせいなのだと。

(注)
1.文部省唱歌とは、明治から昭和にかけて文部省(現・文部科学省)が編纂した音楽の教科書に掲載された歌のこと。
2.作詞:武笠三、作曲:不明、1911(明44)年。
  おまけに、2番の歌詞を紹介させていただきたい。私としてはこの歌を小学校で教えて欲しい、子々孫々まで残しておいてもらいたいと思っているのだが。
 「山田の中の 一本足の案山子 弓矢で威して 力んで居れど
  山では烏が かあかと笑う 耳がないのか 山田の案山子」

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